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カンボジアの悲劇を生んだ国際的背景-ポル・ポト裁判の今日的意味を考える-


 1970年代後半に当時のカンボジアの人口の四分の一、170万人から180万人を虐殺したとされるポル・ポト政権*。その「人道に対する罪」を裁くポル・ポト裁判が9年におよぶ紆余曲折の末、ついに開始の軌道に乗った。7月はじめプノンペンの王宮で裁判官と検事の宣誓就任式が行われたからだ。実際にこの特別法廷が開かれるのはほぼ1年後、2審制の裁判が結審するまでには3年かかるといわれる。この裁判で問われる問題はあまりにも多いが、この稿では、ポル・ポト政権という妖怪を生み出し、肥大化させた国際的背景、とりわけインドシナで繰り広げられた国際政治の対立・抗争の影響に絞って考えてみたい。

 第一に、そもそもポル・ポトが権力への道に踏み出すきっかけを与えたのはベトナム戦争だった。ポル・ポトとその一派はクメール人民革命党、次いでカンボジア共産党を名乗っていたものの、1970年までその実態は、当時の国家元首、シアヌーク殿下の政権に弾圧されて地下に潜っていた一握りの左翼過激分子の集まりにすぎなかった。ところが1970年3月、右派ロン・ノル将軍(首相)が北ベトナム寄り中立を掲げるシアヌーク国家元首を追放するクーデターを起こし、その結果、中国と北ベトナムの肝煎りで、北京にシアヌーク=ポル・ポトという呉越同舟の反ロン・ノル連合政権、すなわちカンボジア王国民族連合政府が生まれた。

 それまでカンボジアのジャングルにひそむ小規模なゲリラ勢力に過ぎなかったポル・ポト一派は、この反ロン・ノル連合政権を足がかりに、とりわけ国民の声望の厚いシアヌーク殿下と組んだことで、カンボジアジア国内でみるみる勢力を広げた。クーデターの背後には、シアヌーク殿下の親北路線を敵視したアメリカの情報機関、あるいは保守的な旧フランス植民地勢力の手が動いていたという説がある。真相はいまだに謎のままだが、いずれにしてもベトナム戦争をめぐる「中越対アメリカ」という国際的対立のメカニズムが、結果としてポル・ポトにその後の権力への道を用意したことは確かだ。

 第二に、ポル・ポトらがプノンペンに政権を樹立し、虐殺への道を邁進する過程でも、新たな大国間の対立関係が大きく影を落としていた。1975年4月にベトナム戦争とその副産物であったカンボジア内戦がいずれも共産側の勝利で終わった。ところが、昨日まで同じ共産主義の同志だったベトナムとカンボジアは、一夜にして「ブラザー・エネミー」(敵対する同志)になった。なぜか。最大の理由は、ポル・ポトらが長年秘めていた、ベトナムに領土を浸食されてきたことに対する歴史の怨念が、政権獲得を機に噴き出したからだ。同時に、この地域的な対立の火種を、もっと大きな中ソ対立という国際的な抗争が煽りたて、炎として燃え上がらせたのだった。

 ベトナム戦争が東西冷戦の「熱い戦い」の性格を持っていたとすれば、ポスト・ベトナム戦争期のインドシナ半島は、1950年代末に始まった中ソ対立の最も熾烈な舞台となった。ソ連は中国に警戒心を持つベトナムと手を握った。中国は、ソ連がベトナムをテコにその「やわらかい下腹」、インドシナ半島に影響力を拡げるのを断固として阻止すべく、反ベトナム民族主義に燃えるカンボジアのポル・ポト政権を徹底して支えた。たとえばポル・ポト政権の国内建設を支援するために4,000人以上もの顧問や技術者を送りこみ、また10億ドル以上もの財政援助を注ぎ込んだ(D.チャンドラー『ポル・ポト伝』=邦訳)。もちろん軍事面での援助も惜しまなかった。

 ベトナムとカンボジアの抗争は1978年末ベトナムのカンボジア侵攻でついに全面戦争となった。ポル・ポトらはタイ国境付近のジャングルに逃げ込み、中国やタイの支援を得て、実に13年にわたってゲリラ戦を繰り広げた。このカンボジア紛争は、いってみれば中ソの代理戦争でもあった。

 第三に、ポル・ポト政権が自国民の虐殺に奔った理由の一つに、異常なまでに膨れ上がったベトナムへの猜疑心があった。ポル・ポト政権の極度の圧政の犠牲となった約180万人の内訳をのぞいてみると、二種類に分かれている。一つは、ポル・ポト指導部が中国の文化大革命にならって徹底的な集団化をはかり、その過程で病死や衰弱死、あるいは粛清された人たち。数ではこの範疇の犠牲者が最も多い。もう一方には、中央、地方の権力機構の内部とその周辺における粛清の犠牲者がいた。この人たちは「ベトナムと通じた裏切り者」の容疑をかけられ、その大部分は拷問の末に処刑された。プノンペンの高校を改造してつくったS21と呼ばれるツオルスレン監獄では、プノンペン陥落までの3年間で1万4,000人以上が処刑された。地方の監獄で処刑されたものは約10万人にのぼった(山田寛『ポル・ポト<革命>史』)。ポル・ポトが党内権力闘争の手段として「ベトナムの手先」というレッテルを貼った例もあったが、実際にベトナムの息のかかった党内勢力も存在し、ポル・ポト中央に反抗しようとしていたことも事実だ。

 ベトナムはカンボジアに侵攻するとすぐ、プノンペンに、カンボジア人民共和国政府、通称ヘン・サムリン政権をつくった。その指導幹部らは、いずれもベトナムと接するカンボジア東部地域のポル・ポト派地方幹部だった。彼らはポル・ポト中央から「親ベトナム勢力」と目されたため、粛清の手をかいくぐってベトナムに逃れた。そこでベトナムの共産党と軍によって訓練され、組織されて、ベトナム侵攻軍とともにプノンペンに戻ったのだった。いまの与党、カンボジア人民党の幹部の多くはフン・セン首相も含めてこのときベトナムから送り返された旧ポル・ポト派の地方幹部たちだ。

◆◆◆

 ポル・ポト政権がカンボジアを「キリングフィールド」に変えてから30年が経った。虐殺の最高責任者と目された当時の首相、ポル・ポトは、1998年に謎の死をとげた。この7月21日には、かつてポル・ポト政権の軍参謀総長をつとめ最強硬派として虐殺を主導したとされるタ・モクも、プノンペンの病院で80歳の生涯を終えた。こんど任命された検事たちは7月10日から訴追対象とする旧指導幹部を特定する作業に入ったが、存命中の指導幹部らも70歳代から80歳代の高齢で、裁判開始まで、あるいは裁判が終わるまで、何人が生きながらえているか危ぶまれている。「遅すぎた裁判」の実効性に疑問を持つものも多い。

 この疑問はさておいて、ポル・ポト裁判は、大国のパワーポリティクスの非情なメカニズムが、ときとして専制と圧制の権力を生み、温存し、肥らせるという国際政治の現実に、あらためて目を向ける機会になるだろう。そうしたメカニズムはカンボジアだけでなく、他のアジア、中東、アフリカ、はたまた中南米でも働いていたし、いまもなお働いている。国際関係が国益という名のエゴイズムを主要なバネにして動いている以上、この現実をいたずらに嘆いても解決にはつながらない。しかしいまの国際社会は、少なくとも「人道に対する罪」に対しては、たとえ年月が経っても糾弾するという原則を貫くようになった。これは、非道な圧政に苦しんだ人たちにとってわずかといえども福音である。

 たとえばポル・ポト裁判は、カンボジア国民の心の奥底にいまも残る国民的トラウマを軽減する心理的区切りになるにちがいない。30年前、国民の4人に1人が虐殺の犠牲になったということは、いまの30歳以上のカンボジア人のだれもが、この虐殺で家族、縁者、友人のだれかを失い、また自身も筆舌につくせぬ恐怖と辛苦の年月を経験したことを意味する。これがカンボジア人の心に残した傷は外部からうかがい知れぬほど深いはずだ。ポル・ポト政権という非道な権力を裁くことの意味は、やはり大きいといわなければならない。

* 国際的にはポル・ポト派をクメール・ルージュ(「赤いクメール」の意)と呼んでいるが、日本では指導者のポル・ポトの名を冠してポル・ポト派と呼ぶのが通例となっているので、本稿ではこの例にならった。

(2006年7月21日記)
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