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朝鮮人民空軍創設者の死去


2007年7月3日に朝鮮人民軍最高司令官である金正日は、祖国解放戦争勝利記念館の講師である朝鮮人民軍中将・李闊(リ・ファル)の霊前に花輪を送った。李闊とは一体何者か。日本では、彼の死に注目するものはほとんどいなかったが、実は、彼こそが朝鮮人民空軍を創設した中心人物なのである。

李闊は、数奇な人生を送ってきたことが知られている。彼は、1918年、平安北道鹽州郡の裕福な家庭に生まれた。本名は李學念(音訳:リ・ハクニョン)である。北朝鮮の文献によると、1936年の春に内地に渡り、東京高等工業学校に入学したとなっている(東京高等工芸学校の誤りか?)。その後、名古屋の民間飛行学校に入学したことになっているが、そのような学校の存在は確認できない。北朝鮮の文献では、民間飛行学校となっているが、同時に教育内容は軍事教練であったことを示唆しており、李闊が入学したのは陸軍飛行学校ではないかと考えられる(ただし、北朝鮮の文献では、海軍将校が飛行学校に視察に来ていたと記しているため、飛行学校とは海軍航空隊であった可能性も捨てきれない)。北朝鮮では、李闊が帝国軍人であったことは決して認めず、李闊は飛行学校を卒業後、読売新聞社の専属パイロットになったことになっている。いずれにせよ、日本でパイロット訓練を受けたことは間違いない。

李闊は1945年8月15日をソウルで迎えたことになっているが、9月には中朝国境の町、新義州にいた。そこで、平安北道の党支部に派遣されていた金一(後の副主席)に見出され、9月23日に平壌で金永煥(金日成の偽名)に会い、新義州航空隊の創設を任された。しかし、裕福な家庭の出身であり、親日派のレッテルを貼られていた彼は、父の財産を没収される憂き目にあう。金一の保護によって財産は取り戻したが、その後も有産階級出身・親日派のレッテルは彼につきまとうことになる。

航空隊は、1945年11月29日に金日成を会長とする新義州航空協会として正式に発足した。12月15日には、新義州航空協会を含めた各地方の航空協会を統合して、金日成を会長、李闊を副会長とする朝鮮航空協会が発足した。これが後の空軍の母体となる。1946年5月6日に金日成は、朝鮮航空協会新義州支部から100名を選抜して、北朝鮮最初の軍事学校である平壌学院に入学させるよう李闊に命じた。6月7日に平壌学院の航空班が航空科に改められ、朝鮮航空協会新義州支部の隊員が入学した(実際に入学したのは113名)。こうして、朝鮮航空協会の隊員は軍事教育を受けることになった。

軍組織としての最初の航空部隊は1947 年8月20日に編成され、その航空部隊は1948年9月18日に第25飛行連隊に編成された。李闊は副連隊長である。第25飛行連隊は、1949年8月16日に第11飛行師団に編成され、1950年1月には数個の飛行部隊と補強部隊によって組織されるまで拡大した。航空司令部(空軍司令部)が民族保衛省(国防省)に設けられるのは、朝鮮戦争が勃発した後の1951年1月であり、李闊は副司令官に任命された。この時期が、李闊の絶頂期であった。

1953年に朝鮮戦争が停戦した後、李闊の没落が始まる。空軍司令官と関係が悪かった彼は、1954年10月に開催された人民軍党全員会議で有産階級出身として危険分子の烙印を押された。この事をきっかけに、1955年7月に航空司令部副司令官を解任され、大学(当時の金策軍官学校、後の金日成政治大学か?)の航空講座長に左遷された。のみならず、李闊は1956年から始まった全土にわたる粛清にも巻き込まれた。1958年1月17日には大学総長によって独房に入れられ、長い間尋問を受けた後、彼は批判書に捺印させられた。ついに彼は、1959年6月2日に軍隊から追放された。さらに、1963年1月20日には労働党からも除籍され、すべてを失った。彼は、山里に送られ、農場作業員に転落した。

一度没落した李闊であるが、その後、再び労働党と軍隊に復帰することになる。1968年4月、平壌に呼び出されて金日成に会った李闊は党籍復活を告げられた。再び労働党員となった彼は、企業所で働くことになり、電力工業部門のある企業所の副支配人に出世した。そして、適齢を過ぎて空軍で働けない李闊の代わりに、1973年7月に息子の李容(音訳:リ・ヨン)が空軍に入ることになった。後に、李容は空軍司令部で勤務することになる。1987年6月13日、李闊は祖国解放戦争勝利記念館の功労解説員(講師)に任命され、平壌に居住することになった。その後、1988年2月5日、ついに李闊の軍隊復帰が決定し、中将の階級を与えられた。その様子はテレビでも報道されたという。李闊をモデルとした「赤い翼」という映画も作成され、彼は再び北朝鮮の英雄の一人になった。死亡したときには、89歳であった。北朝鮮空軍の創設者にしては寂しい死かも知れないが、親日派で有産階級出身者であり、粛清された経験もあることを考えれば、金正日が花輪を捧げただけでも異例であろう。
(2007年11月6日記)
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