コラム/研究レポート

〔研究レポート〕英国産業の展望

2021-03-30
太田瑞希子(日本大学経済学部准教授)
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「欧州」研究会 第12号

「研究レポート」は、日本国際問題研究所に設置された研究会参加者により執筆され、研究会での発表内容や時事問題等について、タイムリーに発信するものです。「研究レポート」は、執筆者の見解を表明したものです。なお、各研究会は、「研究レポート」とは別途、研究テーマ全般についてとりまとめた「研究報告書」を公表する予定です。

EU離脱の移行期間が終了した英国

2020年1月31日に正式にEUを離脱した英国は、2月1日以降はEU離脱協定に基づき移行期間に入ったが、同期間も同年12月31日に終了し、その後はEU法の適用範囲外となった。2020年6月末までにEU・英国双方の合意があれば移行期間を最大2年間延長することが可能であったが、英国側が延長を選択しないと決定したためである。3月23日に開始した英国全土のロックダウンの終了を見る前の方針発表であった。

その後、2020年12月末の移行期間終了前の合意が危ぶまれた中で英EU通商・協力協定にギリギリで合意、日・EU経済連携協定(EPA)は2021年1月1日に発効、環太平洋経済連携協定(TPP)への参加も正式に申請するなど、EU域外国としての新たな貿易政策に乗り出す英国だが、長期的視点で考察すると前途洋々とは程遠いと言わざるを得ない。

日経企業の戦略転換

多くの日本企業は英国をEU単一市場へのアクセスの玄関口とみなし、汎欧州および世界的グローバル生産ネットワークの中で、EUの加盟国としての英国に生産設備を配置するなど、英国は日本企業にとってEU域内で最大の拠点となってきた。離脱前のEU28カ国に進出している日系企業は1240社・拠点数は1万3000をそれぞれ超え、業種に若干の偏りはあるものの約30%の拠点がイギリスに置かれていた1。拠点のうち最も多いのが自動車小売業・ガソリンスタンドの704、ついで事業関連サービスが502、自動車整備など関連サービス業が230であった。しかし、2016年の英国国民投票以降、企業は戦略の再構築を進め、一部の製造業などにおける特定モデルの生産停止や複数業種における英国からの撤退など、拠点としての英国の位置付けが変化していることを示す動きが相次いだ。そのほとんどがEU離脱と結び付けられて解説されてきたが、それは必ずしも正確とは言えない。日系企業にとって重要な要素はEU離脱だけではなく、日EU・EPAの締結・発効のインパクトも併せて考える必要があるからである。

EUEPAによる生産ネットワークの再構築

生産ネットワークの決定要素は市場戦略や生産戦略など多岐にわたるが、サプライネットワークの複雑化の中で最も重要なのはコストの抑制であり、その中で重要な比率を占めるのが労働コスト、すなわち賃金である。英国の最低賃金は時給£8.72とEUトップクラスであり2、本稿執筆時点の外国為替レートでは約¥1300である。例えば、同時点での日本の最低賃金の平均は約¥900であり、レート変動による変化はあるが、時間あたり¥400の差が存在する。ちなみに日本の最低賃金の最低(13県)は¥790であり、英国との差は実に¥500を超える3。仮に1日8時間労働とした場合、25歳の労働者1名あたり¥3200/日、¥16,000/週(5日労働の場合)、¥64,000/月の差である。もちろんEU域内で技術力を伴いつつ労働コストが抑制されている国も存在する。

過去20年にわたって最低賃金の上昇が続いた英国は労働コストの点で著しい比較劣位にあり、さらに日EU・EPAの発効で99%の関税が撤廃される中、特にEUのシェアが限定される日系企業は労働コストに圧倒的比較優位をもつ日本への拠点回帰、または他の労働コストの低い国々に生産工程の大部分を移転し域内生産を維持する、または日本の原産地証明を獲得してEUへ輸出する戦略を積極的に検討するであろう。

これは英国内での雇用喪失に繋がるため、企業向け大型減税などで対応することが有効だが、EU離脱で揺れる企業を国内に引き止める有益な手段としての法人税減税を含む大幅減税を行う財政的余地を英国は持ち合わせているだろうか。

COVID-19対応と増税

2021年3月3日、英国政府は2023年4月1日から大企業を対象として法人税(メインレート)を現行の19%から25%へと一気に6%引き上げることを発表した。直近では2017年4月にそれまでの20%から19%への引き下げが実施されるなど、英国の法人税は1973年以降引き上げられたことがなく、むしろ一貫して引き下げられてきた。今回の引き上げは1973年以来実に50年ぶりの引き上げである。英国内の企業の約70%を占める年間利益5万ポンド以下の企業に対する法人税は現状通り19%に維持され、実際にこの税率の対象となるのは一部の大企業となる。

英国政府は、この引き上げを実施しても英国の法人税率はG7の中で最も低い水準に留まると強調する。確かにこれは事実であり、また25%という法人税率はEUの主要国の中では決して高い水準ではない。例えば2020年の法人税率はドイツ29.9%、フランス32.0%、イタリア27.8%、そしてスペイン25%である。

ただし、北欧諸国(スウェーデン21.4%、フィンランド20.0%、デンマーク22.0%)や中・東欧(ポーランド19.0%、ハンガリー9.%)と比較すれば決して優位であるとも言えない。さらに、もともとEU有数の法人税の低さ(12.5%)を誇り英語国かつEU加盟国であるアイルランドを隣国に持つ英国にとって、企業誘致および引き止め策としてプラスには作用しないであろうが、巨額の財政支出をCOVID-19対策に費やす以上は不可避であると言えよう。

EU離脱による金融サービス業の優位性も逓減の可能性

EU離脱の英国経済への影響という観点からは、通関手続きや原産地証明などの問題が指摘されるが、The Cityに代表される金融サービス業も安泰ではない。EU単一市場からの離脱によって英国の金融サービス業は様々な意味でEU単一金融サービス市場から分断されることになり、同時にEU単一パスポートのメリットを享受することが出来なくなった。1989年に施行された第2次銀行指令で規定された単一パスポート制度は、いずれかのEU加盟国を本拠地とする金融機関に対し追加の営業認可を得ることなしにEEA諸国(EU加盟国およびノルウェー、リヒテンシュタイン、アイスランド)での支店を開設しサービスを展開すること認めるものである。この制度を拠り所に英国を本拠地とする金融機関は英国当局による営業認可のみでEEA全域でサービス提供を行ってきたが、それを喪失することが確実になった時点から、英国は同等性評価を獲得することによってEU単一金融サービス市場へのアクセスを確保しようと試みてきた。

同等性評価は、EU域外の第三国が金融サービスを域内で提供するために取得が義務付けられるものであり、日本や米国等の金融機関はこの制度に基づきEEA域内で営業している。その認定は、欧州委員会の金融安定・金融サービス・資本市場同盟総局が行うアセスメントに基づき認定された後4、欧州金融監督制度(ESFS)のミクロ・プルーデンス各局から個別の金融機関や投資会社が承認される2段階プロセスである。

従来の同等性評価は、①1つ1つの規制に対する個別承認、②アセスメント開始から終了までにかかる時間の不透明性、③欧州委員会による承認撤回が可能、という3点において単一パスポート制度に劣る。①においては、同等性評価の範囲が規則や指令の一部に留まる場合も多い。約40の金融セクターに適用されているが、単一金融サービス市場への全面的アクセスを認められているのは、外国投資銀行、クリアリングハウス、証券取引所の3つに過ぎない点も英国にとっては問題である。

②においては、過去の例では1つの規則の同等性評価に2年以上を要したケースも存在する。③においては、数週間という極めて短いノーティスでEU側からの同等性評価の取り消しが可能である。

英国はEUとの離脱交渉において同等性評価の決定権をEUと英国の共同判断とすることを求めたが、EUによって否定され5、妥結した英EU通商・協力協定には金融サービスは含まれず、現行規制に関する同等性は確保できなかった。証券保管機関には2021年半ばまで、クリアリングハウスには2022年半ばまでの現状維持が認められたが、それ以外に対する同等性評価は、今後アセスメントを1つ1つクリアすることが求められる可能性が高い。2021年3月中に両者間の規制協力に関する基本合意書を交わすとされており、これには同等性評価の決定に関する透明性および適切な対話に関する合意を含むことになっているが、この基本合意書も拘束力を伴わない。つまり、英国がEU離脱前と変わらぬ条件でEU金融サービス市場へアクセスすることは不可能に近いと言えよう。また、金融規制のdecision making processへの影響力低下は否めず、長期的に国際金融センターとしてEU離脱時点と同様の地位を維持するのには課題が多い。

EUの政策決定過程からの分断

最後に、英国の産業にとっては、EUの政策決定の過程に影響力を行使できなくなったという喪失も大きい。EUは拡大を続ける中で欧州でのヘゲモニーを確立しただけでなく、スタンダード・セッターとして米・日本と規格競争を繰り広げる力を得た。EU加盟国としての英国はEU規制の立案から採択までのプロセスにおいて強い発言力を堅持していたが、それはほぼ喪失された。英国にはEU機関として、EBA(既出)と欧州医薬品(EMA)が所在していたが、英国のEU離脱決定を受けて2019年に前者はフランスのパリへ、後者はオランダのアムステルダムへと移転した。EU機関をEU域外へ設置しないのは当然でありこれは端的な例に過ぎないが、EUの全ての政策決定過程に本格的に関与できないため今後の英国の産業は大きな不利益を被りかねず、上述した様々な課題が山積する中で英国経済は多難な道筋を進むことになる可能性が高い。




1 「日経企業のEU進出状況」調査、東京商工リサーチ、2017年4月21日公開
2 英国の最低賃金は年齢によって異なり、見習い・18歳未満・18~20歳・21~24歳・25歳以上の5つに区分される。ここでは最も対象者の多い25歳以上の数値を採用している。また英国の最低賃金は全国一律である。
3 「令和2年度地域別最低賃金改定状況」厚生労働省ホームページ、2021年3月22日閲覧

4 ミクロ・プルーデンス監督を担う欧州銀行監督局(EBA)、欧州証券市場監督局(ESMA)および欧州保険・年金監督局(EIOPA)がアドバイスを行う。

5 'Remarks by Michel Barnier following Round 3 of negotiations for a new partnership between the European Union and the United Kingdom.' European Commission, 15 May 2020