JIIAコラム/Op-Ed

  ロシアと京都議定書

笠井  達彦(主任研究員)

本2004年9月30日、ロシア政府は京都議定書批准法案を議会に提出することを閣議決定した。同批准法案は、現在開会中のロシア議会での審議を経て、大統領署名が得られた時点でロシア法として成立し、その手続き終了後、90日を経て京都議定書は正式に発効することとなる。

1997年12月に採択された京都議定書は、各国の温室効果ガスの削減目標を具体的に定め、批准した先進国の二酸化炭素排出量合計が基準年である1990年水準の55%に達すれば発効することとなっている。

ロシアは、そのような京都議定書を1999年3月に署名し、批准準備を開始した。2001年に二酸化炭素の最大排出量の米国が議定書を離脱したが、その時点で日本、EU、カナダ等の批准により世界排出量の44%が確保されていたので、あと17.4%を占めるロシアの批准がなされれば、議定書が発効するということで、世界中の関心がロシアの批准に向けられた。ロシアはそのような米国を非難しつつも、その後も議定書批准に前向きに取り組み、2003年8月には批准法案を議会に提出する旨が報じられていた。

その当時、ロシアが京都議定書批准に前向きに取り組んだ理由は、同議定書で規定の温室効果ガス排出権取引でロシアが巨利を得られるとの見通しがあったからである。我が国に目を向けてみれば、日本は、議定書が対象とする第一期(2008-12年)において温室効果ガスの平均排出を基準年である1990年比で6.0%削減する義務を負うが、90年以降も実際には排出量は増加し、2002年は、基準値を7.6%上回った。これがそのまま継続するのであれば、日本は第一期に計13.6%(6.0%+7.6%)の排出量を削減しなければならないが、これまで積極的に省エネを進めてきた日本としては、これ以上の削減はなかなか難しい。そこで、日本が期待するのは、温室効果ガス排出権を世界中で新設の排出権取引市場で、あるいは諸外国より直接購入することで、既に一部日本企業がそのような排出権購入に乗り出している。そのような日本にとって、今なお排出権に余裕のあるロシアは大きなターゲットである。

そのように議定書批准に前向きに対処していたロシアであり、プーチン大統領自身も2002年の時点では批准を示唆していたが、2003年9月より、イラリオノフ大統領経済顧問とイズライリ世界気候・生態学研究所所長の両名が中心となり議定書批准にブレーキがかかった。その主張の第1は、京都議定書は科学的根拠が薄弱である(二酸化炭素排出量と地球温暖化の因果関係が不明確)、第2に、京都議定書は不公正である(二酸化炭素排出量と地球温暖化の因果関係が仮に証明されたとしても、米国・中国等、京都議定書を離脱したり、二酸化炭素排出抑制義務の対象外の国があり、不公正、また、世界の二酸化炭素排出量の三割しか占めない日・欧・加のみが排出抑制をしても無意味)との点にある。

以上の論拠に立ちつつ、議定書批准の慎重派は、議定書が定める負担は長年続いた経済不振からようやく回復しているロシア経済にとって回復の阻害要因となるとの議論を展開した。

たしかに、排出量の面を見れば、ロシアは、ソ連崩壊後の経済崩壊でエネルギー消費量を大幅に減少させ、現時点でも90年代水準の75-80%しか排出しておらず、余裕分を売却することが可能である。また世界最大の森林面積を誇るロシアは(約9億ヘクタール)最大の酸素供給国との自負がある。しかも、ロシアが議定書に署名した99年3月は、98年8月のロシア金融危機の直後で、ロシア経済はしばらくは回復し得ないとの見通しがあった。しかしながら、そのような暗い見通しに反して、ロシア経済は99年より年率7-9%の勢いで急速に回復している。そのような経済回復にあたり、元来、旧ソ連型のエネルギー多消費型産業構造を引き継ぐ現在のロシアでは、エネルギー消費量も急増するわけで、そうなれば現有の排出量の余裕は急速に費えてしまい、更に、もし、排出量を他国に売却していた場合には、今度は排出量が経済回復のネックとなりかねない。プーチン大統領はロシア経済をダイナミックに発展させることを見込んでおり、議定書の第一期である2008〜12年はともかく、それ以降を見据えるとロシアが欧米諸国に追いつく可能性を放棄することになるかもしれない。

2003年10月初旬にモスクワで開催の世界気候変動会議では、その開会式で、プーチン大統領は「京都議定書を批准するかどうかは十分な検討を経た後に国益に基づいて決める」と述べ、その後の会議では、世界中の多くの学者より、京都議定書の効果について疑義が呈された。そのようなプーチン大統領の発言もあり、その後の京都議定書批准推進派と慎重派の間のバトルにおいては、慎重派が優位に議論を展開し、本2004年5月には、ロシア科学アカデミーが、京都議定書には科学的根拠がない、大気圏中の温室効果ガスの濃度を引き下げる上で同議定書があまり効果的でない、同議定書のメカニズムがロシアにとって経済的リスクをも孕んでいるとして、国益に合致しないとの結論を出した。

他方、そのような結論の直後に、今度は、ロシアがEUとの間で進めていたWTO加盟交渉において、EUがロシアのWTO加盟を支持することの見返しに、ロシアによる京都議定書批准を要求し、結局、プーチン大統領は「EUは(ロシアWTO加盟において)我々に歩み寄った。このことは京都議定書に対するロシアの肯定的態度に影響を与えないわけにはいかない」と述べた。おそらく、この時のプーチン大統領の脳裏には、京都議定書のロシア経済への影響やロシアのWTO加盟問題等の要素が当然のことながら存在していたのであろうが、このほか、冷戦後流動化している国際政治の中で、京都議定書批准によりロシアが米国や中国に対し外交上の地歩を得ることが出来るか、さらには、昨年10月のホドルコフスキー逮捕と現在のユーコス社危機をめぐっておこっている「正常な投資環境がロシアには欠如」との国際的な批判、あるいは本年9月にプーチン大統領が打ち出したロシア連邦制度改革(知事の推薦化)に対する「民主化に逆行の可能性」との国際的な懸念を若干なりとも緩和したいとの気持ちもあったのかもしれない。

いずれにせよ、その後も、慎重派は依然として批准反対の議論を進め、どうなっているのかな、と思っていた矢先に、今回のロシア政府による批准法案の承認である。9月30日のロシア政府閣議では、外務省が提案趣旨説明を行い、「ロシアが批准を拒否すれば、国際的な批判が起こるので、それは避けるべき」との議論が展開されたとの旨が報じられている。

閣議後に慎重派の一人であるイラリオノフ大統領経済顧問は、記者団に対して「余儀なくされた政治的決定である。議定書はロシアの経済発展にブレーキをかける可能性がある。議定書の第1段階、2008年〜12年に設定されている制限措置を受け入れた場合、ロシアは国内総生産(GDP)を10年間で倍増するというプーチン大統領の方針を実現することはできないだろう」とコメントし、これに対して、グレフ経済発展貿易相は「議定書批准は経済成長に影響を及ぼすことはない」と述べた旨が報じられている。

なお、ロシア連邦議会はプーチン大統領の与党が圧倒的多数を占めているので、批准は確実に早期に行われ、それにより京都議定書は来春にも発効する由が報じられているが、筆者としては、そこまで言い切れるのかな、という感じである。確かに、議会においてプーチン大統領与党が多数を占めているのはプラス材料であるが、結局、フラトコフ首相が閣議後に「ロシアによるこの文書の批准が適切か否かの問題に関し下院で議論が継続される可能性がある」旨を述べつつ、これまでの推進派及び慎重派の議論が批准審議の過程に移されることを示唆したが、これが一番あたっている見方のような気がする。その批准審議では、総論ベースでは地球温暖化と異常気象に懸念を有しつつ、議定書批准に前向きに対応しつつも、特に地域経済への影響が最大の争点となるであろう。排出権取引における大きな余裕を有している地域(特に貧しい地域)は、前向きに対応するが、現在のロシア経済回復に伴い大きく業績を伸ばしている地域は(特に比較的に裕福な地域で産業等が発達している地域)は、批准に躊躇する可能性もあるものと考える。いずれにせよ、このあたりは、今後の議会審議で徐々に明らかになってくるであろう。ロシアの下院と上院が批准法案を承認し、その後、大統領の署名がなされれば批准法案は成立し、その90日後には京都議定書自体が発効する。現在、ロシア政府で言われているスケジュールは年末までに大統領署名までもっていくことであり、そうなれば、たしかに来春には京都議定書は発効する。

なお、今後の排出権取引のために多くの具体的な事項及び手続きが定められなければならないところ、ロシア政府は関係省庁に京都議定書批准により発生する義務と権利の実行に関する提案を向こう3カ月以内に準備するよう指示している。ただ、この点は、排出権を企業間で配分したりする作業が出てくるので、まだまだ膨大な作業量が必要である。

(2004年10月6日記)



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