【 クルド人とシーア派 】

 イラクという国家は、多様な民族および宗教宗派から構成されており、これが国民統合や政治的安定性の大きな阻害要因となっていることは、すでに指摘されている。それは間違いではないが、マルチ・エスニックな政治環境が国家の不安定性に結びつく状況自体は、多くの途上国に見受けられ、必ずしもイラクのみが有する特殊性とは言えない。その特殊性は、あくまで政治環境の史的背景や内容にある。

 イラクの人口センサスは諸外国と同様、国籍のみを以って行われるので、各エスニック集団の人口は推定に頼らざるを得ない。その推定の幅は大きいが、おおよそ以下の数字が目安となろう。総人口2050万人(95年)の内訳は、民族的にはアラブ人が80%、北部に居住するクルド人が15%(約300万人)、他に少数のアルメニア人やトルクメン人、ユダヤ人などがいる。宗教宗派では南部に居住するシーア派(大半が12イマーム派)が60%(約1100万人)、スンナ派が35%(クルド人の大半を含む)、キリスト教諸派が5%。ちなみに、アラブ諸国の中でシーア派住民が過半数を占めるのは、イラクとバハレーンのみである。

 イラクの領域は、第一次大戦後の1920年サンレモ会議でオスマン領分割が協議され、イギリスの委任統治領として設定されたものである。それまで、イラクという地名は南部の一部のみを指しており、現在のイラクの領域は歴史上、国や州、地方といった地理的一体性を持ったことがなかった。イギリスが委任統治領にペルシャ湾沿岸を欲したため、バグダッドを中心とするスンナ派住民の地域に、南部のシーア派住民の地域が加えられ、さらにクルド民族国家構想がトルコのケマル・アタチュルクに拒絶されて、北部のクルド人地域が加えられた。イラクという国家領域も、その民族・宗教宗派構成も、人工的に形成されたものであった。

 イギリス当局は委任統治領の運営にあたり、最初から国家としてのまとまりを欠いている困難な状況に対し、徴兵制による強力なイラク軍を創設し、その軍事力を以って対処することを基本方針とした。この方針は、1932年イラク王国の独立や58年イラク革命による共和制への移行後も、イラク人政権によって引き継がれてきた。現在、紛争後のイラク軍再建に関して、トルコやイランという強大な周辺国の脅威に対抗するため、ある程度の規模の軍は維持されるべきとの議論がある。しかし、イラク軍の規模や兵力は、第一義的には国内治安維持や国民統合のための暴力装置として機能してきた。そして、その過程で必然的に軍の政治への関与が増大し、クーデターが繰り返されて、軍事政権が維持されてきた。紛争後のイラク軍再建の道程は、領土的一体性のみならず国家的一体性のための手段として、新しい政治体制下でも引き続き軍の役割を重視するのか、それとも別の異なる手段を選択するのかによって左右されよう。

 一方、以上のような軍を中心とした統治体制を、これまでスンナ派アラブ人の勢力が担ってきたため、シーア派住民やクルド人たちは政権から疎外され、抑圧される場合も多かった。湾岸戦争中から直後の91年2月から3月にかけて、シーア派住民が南部で、クルド人勢力が北部でそれぞれ反乱を起こし、地域の主要な都市を確保した。しかし、その後米国などの支援や介入のないままに、イラク政府軍が鎮圧に成功し、南部は制圧され、クルド人勢力はキルクークを失った。現在まで、南部は反乱が散発しつつも、イラク政府の支配下にあり、北部ではクルド人勢力の実質的な自治が続いている。イラク国内で兵力を有する反体制派は、このクルド人勢力のみで、クルド民主党(KDP、兵力約1万5000人)が西部を、クルド愛国同盟(PUK、兵力約1万人)が東部をそれぞれ支配下に置いている。南部シーア派住民は、1979年イラン革命以後、おそらくはイラク政権への不満から、イランの政体に支持や共鳴を示した。その最たるものが、イラク・シーア派の反体制組織であるイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)であり、上記91年の反乱を指導し、イラン型のイスラム革命や国家を希求したとされる。ただし現在では、イランの現状に対する評価から、一般住民のイラン革命への共感は、当時に比して非常に薄れていると考えられる。

[キーワード「クルド人問題」、「シーア派(12イマーム派)」参照]

(3月22日、松本 弘)

―開戦後―
3月22日
米軍、北部クルド人自治区のアンサール・アルイスラムの拠点を空爆。シーア派地域のナジャフ、サマーワなどの都市で反政府暴動が発生と報道(SCIRI筋)。
3月25日
ナジャフのイスラム法学者グループが、米英軍への抵抗を呼びかけるファトワー(法的な意見や裁定)を出す。アーヤットラー・オズマのシスターニー師も署名。
バスラで小規模な反政府暴動。
3月27日
PUKの武装勢力、自治区外キルクーク方面に進出。
3月28日
PUK、キルクーク周辺でイラク軍と交戦開始、また自治区内のアンサール・アルイスラムの拠点を制圧。
バスラを脱出する市民数千人にイラク民兵が発砲、英軍が反撃。
米、イランに亡命中のSCIRIの軍事部門バドル旅団がイラクに越境攻撃と非難、イラン政府およびSCIRIは否定。
3月29日
イラク・スンナ派の「ウラマー協会」アブドルカリーム・ムダッレス会長は米英軍へのジハードを呼びかけるファトワーを出す。
4月1日
米軍は、ナシリーヤ周辺の戦闘で地元部族民100名の協力を得たと発表。
4月3日
ナジャフのアーヤットラー・オズマ、アリー・シスターニー師が「米英軍を妨害しないように」というファトワーを発出(米軍発表、一部メディアは否定)。
4月6日
イラク反体制派「イラク国民会議INC」のチャラビー議長および「自由イラク軍」700名は、ナシリーヤに到着。
シーア派反体制指導者アブドルアジーズ・ホイ師が、ロンドンからイラク南部に入る。
ナジャフのシーア派指導者らは、米軍との会議で自治のための評議会設置で合意。
カルバラーで、住民とフェダイーン・サッダームとの衝突発生(報道)。
4月7日
バグダッドの南部と西部で、住民とバース党民兵の衝突発生(報道)。
4月9日
バグダッド陥落。市内のシーア派住民地域、サッダ―ム・シティーで略奪発生。
英軍は、バスラでシーア派指導者による「市民委員会」の設置を発表。
4月10日
ナジャフのイマーム・アリー・モスクで、シーア派反体制指導者アブドルアジーズ・ホイ師が暗殺される。
トルコ外相は、イラク北部へのトルコ監視団派遣などで米と合意と発表。
4月11日
米軍およびクルド人武装勢力、モスルを制圧。モスルでイラク軍4万人投降。キルクーク、モスルからPUK撤退開始。
4月12日
ナジャフで、シーア派指導者シスターニー師の自宅を、故ムハンマド・サーディク・サドル師の支持者が包囲し、国外退去しなければ殺害と脅迫。
トルコ軍事監視要員、イラク北部に入る。
4月15日
ナシリーヤ近郊で、暫定統治機構(IIA)のためのイラク人会議が開催され、連邦制による民主国家建設など、13項目の声明を発表。国内外の反体制派や部族代表など約80人が参加し、米からハリルザード特使、ガーナ―ORHA局長が出席。SCIRIは欠席し、チャラビーINC議長は代理を出席させた。ナシリーヤ市内では、ナジャフのシーア派勢力がINC中心の会議であることに抗議するデモを開催。
4月16日
フランクス米中央軍司令官、チャラビーINC議長および自由イラク軍120名が、バグダッド入り。SCIRI幹部のアブドルアジーズ・ハキーム師、亡命先のイランからクートに帰国。
4月17日
バグダッドではチャラビーINC議長が、カルバラーなどのシーア派地域の都市では地元ウラマーが、独自に市長などを任命。
4月21日
バグダッド市内のシーア派指導者ムハンマド・ファルトゥーシ師が米軍に拘束されたとして、シーア派住民約1万人が市中心部で抗議デモ。
4月22日
カルバラーで、アルバイーン(第3代イマーム・フセインの殉教から40日目の行事)に国内外から100〜200万人が参加。
4月23日
カルバラーで、SCIRIが呼びかけた3000人による反米デモ。
米ホワイトハウス報道官は、イラク国内のシーア派に介入しないよう、イランに対して警告したと発言。
4月24日
イランは、イラクのシーア派支援を否定し、米国を批判。