【 民主化の問題点 】

 戦後のイラク暫定統治のなかで、最も大きなテーマのひとつとなっているのが、イラク新体制の民主化である。ブッシュ大統領は開戦前の演説で、イラクにおける民主的国家の成立は中東全体の民主化に大きな変化をもたらすとしたし、現在の攻撃の目的が大量破壊兵器の武装解除とともに、抑圧的なフセイン体制の打倒である以上、それに代わる新体制は、当然民主的なものでなければならない。昨年12月にパウエル国務長官が発表した米・中東パートナーシップ・イニシアチブも、中東地域の民主化を念頭に置いたものと言われている。

 しかし、イラクの民主化については、その実現を疑問視するものが多い。現在の攻撃を正当化するレトリックのひとつに過ぎないという立場もあるし、英王立国際問題研究所Royal Institute for International Affairsのレポート”The Regional Fallout”(http://riia.org/pdf/research/mep/Iraq%20.pdf)は、イラクの現状を知らない無謀な考えと批判している。確かに、これまでの米国による対中東関与は中途半端に終わる例が多く、イラクの民主化がかたちだけのものに終始する可能性はある。上記した米・中東パートナーシップ・イニシアチブも、そのための予算は2400万ドルと極めて少額であり、中東地域の民主化に対する米国の決意や行動がどれほどのものであるか、未だ明らかではない。民主化という理想主義的なテーマそのものが、新保守主義と呼ばれる共和党や米政権内部の傍流により打ち出されたものであり、いずれ主流である保守派が伝統的に示してきた現実主義的な米国益優先の姿勢が表面化するとの観測もある。

 しかし、民主化の是非や可否とは別に、そのあるべき姿を考察する作業は、イラクと中東の将来に有意義なものであろう。ここでは、フセイン体制打倒後のイラクの民主化に関わる議論の展開を追い、それにこれまでのイラクの政治社会状況を考え合わせることにより、その実現に関わる問題点や方策を整理してみたい。

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1、民主化の構想

 実際的な民主化の議論の最初は、おそらく米国務省の「イラクの将来プログラム」であろう。これは、2002年5月から在外イラク人の協力を得て始めたもので、フセイン体制後の国家構想を立ち上げることを目的としていた。17の作業グループ(司法、財政、民主制、保健衛生、公正な行政、水・農業・環境、経済・インフラ、地方政府、国防、石油・エネルギー、教育、治安、市民社会建設、報道の自由、難民帰還、外交、文化的遺産維持)により各種のレポートがまとめられ、その後これらのレポートは、イラク反体制派の調整機関であるイラク国民会議(INC)の承認を受けている(ただし、Kanan Makiaによる民主化に関わるレポートのみ不採択)。

 そして、「イラクの将来プログラム」の成果を踏まえた上で、米国の主要なシンクタンクからイラク復興に関わる包括的な提言が発表された(外交評議会の“Guiding Principles for U.S. Post-Conflict Policy in Iraq”および”Iraq: The Day After”、CSISの ”A Wiser Peace: an Action Strategy for a post-conflict Iraq”、別稿「イラク復興(米国内の議論)」、「戦後統治の行方」参照)。これらの提言の内容は、統治形態については意見の相違があるが、それがなすべき任務については大きな違いはない。それは、どのような暫定統治であれ、イラク新体制に向けた目標と道程が描かれている。その主要な任務は、脱バース党化と国民和解、国内の有力者と国外の反体制派メンバーによる中央・地方の各レベルでの諮問委員会や会議の設置、新憲法や選挙制度など議論する国民会議の開催、国際的な法律専門家チームによる法制の見直しと「法の支配」の確立などとなっている。これらの作業の実質的な責任者に、「イラクの将来プログラム」に参加した在外イラク人が充てられることは疑いない。そこで問題となるのは、在外イラク反体制派の位置付けである。

 一般には、国防総省が戦後の駐留を容易とするために、INCや元バアス党員を多く含むイラク国民合意(INA)を暫定政権に充てようとしたのに対し、イラク国内における国外反体制派への支持が皆無であることから、国務省はこれに反対したと伝えられる。確かに、上記した各シンクタンクの提言はすべて、在外反体制派は新国家を構成するひとつの勢力であるべきで、彼らによる暫定政権は不適当であると一蹴している。その後に発表された国防総省による戦後統治計画でも、この暫定政権は否定された。しかし、その内情は単純ではない。国防総省による戦後統治計画の内容が報道された直後、パウエル国務長官は「在外反体制派は戦後統治に重要な役割を果たす」との声明を発表している。この声明はおそらく、国務省内における在外反体制派の役割を重視する意見の表われであると思う。上記した民主化に関わる任務のみならず、戦後統治全般への協力者としては、「イラクの将来プログラム」に直接参加したイラク人のみでは不十分であり、そのレポート内容に精通しているINCやINAのメンバー多数が必要となる。それゆえ、暫定政権の構想はつぶれたとはいえ、彼らが戦後統治の実務面に登用される可能性は高い。

 要するに、国務省としては国外反体制派による暫定政権を忌避しつつ、統治自体は自らの「イラクの将来プログラム」の内容を実現すべきものと考えており、在外反体制派への位置付けも、国務省に近いシンクタンクの提言も、その意向に沿ったものとなっている。それゆえ、上記した民主化に関わる任務が実現するか否かは、「イラクの将来プログラム」や各提言が、戦後統治にどれだけ反映されるか、実務面を担うであろう在外反体制派のメンバーが、国内の有力者たちにどれだけ説得力や影響力を発揮できるかにかかっていよう。

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2、イラクの政治社会状況

 米国防総省による戦後統治計画では、イラクを北部(クルド人地域)、中部(スンナ派アラブ人地域)、南部(シーア派アラブ人地域)の3地域に分割して統治するとしている。このような分割は、言うまでもなくイラクのマルチ・エスニックな政治環境に対応した統治策である。しかし、それは混乱や衝突を未然に防ぎ、統治の効率性を高めるかもしれないが、同時にイラク建国以来の最大の懸案である国家的なまとまりや国民統合を阻害し、最悪に場合には国家の分裂を助長しかねない諸刃の剣である(別稿「クルド人とシーア派」参照)。多様な民族や宗教宗派が存在する国家において、レバノンのようにその構成や分布を政治体制の基本とするのか、それとも先進国に象徴されるように、それらを越えた平等なる国民の形成を政治体制の前提とするのかによって、実現されるべき民主化の姿は異なるものとなる。

 イラクの政治状況が持つ問題点は、ほかにもある。それは、いわば国家レベルでのネポティズム(縁故主義)である。フセイン体制がスンナ派アラブ人の勢力を支持基盤とし、親族を中心とした側近たちに支えられたものであることは、よく知られている。しかし、スンナ派アラブ人と親族の中間に、イラクに根強く残る部族社会や地域社会の伝統という問題がある。フセイン大統領の出身地は、バクル前大統領と同じバグダッド北方のティクリートである。フセイン自身が、バクル前大統領の同郷人優遇のなかで出世を遂げてきた。バクル前大統領を辞任に追いやった後、フセイン大統領は同様に出身地や出身部族を優遇し、それを権力基盤の強化につなげた。ティクリートは、優先的に政府の開発政策が行われ、地方行政でも特別の配慮がなされ、多くの将校や政府・バース党の幹部を輩出して「ティクリート人脈」を形成した。

 このような国家レベルのネポティズムは、上述したマルチ・エスニックな政治環境よりも、日常的により大きな弊害を生む。民族や宗教宗派といった大規模な集団ではなく、そのなかの特定の地域や集団が、政治的目的のために過度に優遇される事態は、全土にわたる均質的な行政と国民全体に対する機会均等を要件とする民主制にとって、最も大きな阻害要因である。しかし、権力者の出身地といった特定の地域・集団を優遇する体制や政策は、イラクのみならず多くの途上国に頻繁に見られる。地縁血縁の重視は、いわば伝統的社会の常識であり、これを行わない指導者は近代的・進歩的というよりも、むしろ恩知らずや裏切り者といった評価を受ける。イラク新体制の指導者や幹部が、社会の伝統から自由であるという保証はないし、そのような行為の禁止は、逆に新体制の安定性を不必要に損ねる。ネポティズムが好ましくないことは明らかだが、これが社会の基本的な構造であることも事実である。地縁血縁の重視を一定の許容範囲にとどめ、それが権力の移行を阻害しないようにする制度や方策が望ましいが、その実現には多大な困難と長い時間を伴う。

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3、評価と提言

 以上のような米国内の経緯やイラクの政治社会状況を考え合わせると、イラクの民主化は、やはり近代西欧の民主制度とイラク固有の状況との折衷とならざるを得ない。そうなれば、イラクの民主化のレベルは他の途上国とさして変わらないものとなり、中東地域に影響を及ぼすほどのものとはなりえない。しかし、突破口がないわけではない。そもそも、国家レベルのネポティズムが維持される要因は、上記した社会の伝統が利権の配分構造と重なっているところにある。産油国であるイラクの場合は、指導者が石油収入を独占し、それを親族・側近→出身地域・集団→スンナ派アラブ人→体制に迎合したシーア派やクルド人の有力者といった、ピラミッド状の構造に沿って配分してきた。途上国の場合は、このような利権の配分構造がとりわけ巨大で、末端まで含めると想像以上の人数がその恩恵に浴している例が多い。共和制下で指導者の在任期間が長期化し、権力の世襲化が生じる理由は、権力者自身の意思のみならず、利権の配分にあずかる人々が、その構造の維持に固執するためであり、イラクもその例外ではない。

 ならば、政治制度の確立と平行して、同時に利権による収入を全土へ均等に配分するシステムを確立してしまえば、ネポティズムへの政治的経済的意味の付加を抑え、それが民主化に悪影響を与えることを阻止できる。この場合、利権が石油に集中している状況は、石油だけをその対象とすればよいので、むしろそのような方策を容易にする。石油収入という巨大な利権を、エスニック集団間の対立や特定地域・集団の優遇から切り離し、国民統合や民主制の確立に有効に作用するよう位置付けることができなければ、イラクの民主化は実現しない。

 もうひとつの突破口は、「司法の強化」である。イラクのみならず、途上国の政治体制や民主化に対する大きな批判のひとつは、司法の独立や権限の不完全さや脆弱性にある。検察や裁判所が政治権力の強い影響下にあるため、腐敗や汚職に対処できず、また既存の体制の実質的な維持勢力と化している例が多い。それゆえ、上記したシンクタンクの提言すべてが、健全な司法の確立を重要項目の一つとして掲げている。その内容は、既存の法制・法律の見直しや広報・教育による「法の支配」の理解の普及であるが、イラクの場合はそれだけでは不十分である。

 多くの途上国において、司法改革が極めて困難である理由は、腐敗や汚職が政権の末端のみならず、その上層部にも存在するため、司法を強化する担い手自体が欠けていることにある。これが、「法の支配」や世俗倫理に人々が幻滅し、イスラム原理主義に魅力を感じるひとつの大きな要因となっている。しかし、イラクの場合はこれから新体制を立ち上げることになるので、そのメンバーは過去の腐敗・汚職とは関係がなく、強力な司法を受け入れる余地は十分にある。新体制確立に強力な司法(特に検察)を含めることができれば、政権の腐敗や汚職を抑え、イスラム原理主義に対抗する世俗倫理の建て直しにもつながる。さらに、この強力な司法は、上述したイラクの政治状況と石油収入の分配を切り離す体制を監視し維持する機能も、担うことができる。

 民主化は、憲法や議会や選挙の制度のみを以って可能となるようなものではない。「イラクの将来プログラム」や各提言は、これまで述べてきた民主制の確立、石油収入の公正な分配、司法の確立を単に並列しているに過ぎない。最も重要な問題は、それらを有効に組み合わせることにある。戦後統治の目的は、「イラク解放」の成果のためにおざなりの民主化を示すことでも、民主主義の原則をイラク新体制に過度に押し付けることでもない。それは、イラクに発展と独裁をもたらしてきた石油利権という怪物に、司法が首輪を付けることができる体制や制度をもたらすことにある。それが可能となれば、中東や途上国世界全般に対する影響は絶大なものとなろう。

(3月23日、松本 弘)