コラム/研究レポート

〔研究レポート〕日韓関係改善の「ラストチャンス」はあるのか?

2021-09-09
箱田哲也(朝日新聞論説委員)
  • twitter
  • Facebook

「『大国間競争の時代』の朝鮮半島と秩序の行方」研究会 FY2021-2号

「研究レポート」は、日本国際問題研究所に設置された研究会参加者により執筆され、研究会での発表内容や時事問題等について、タイムリーに発信するものです。「研究レポート」は、執筆者の見解を表明したものです。

なお、各研究会は、「研究レポート」とは別途、研究テーマ全般についてとりまとめた「研究報告書」を公表する予定です。

こんにちの日本と韓国の関係は、国交正常化の年にちなみ、「65年体制」とも呼ばれてきた。その枠組みを揺るがすような判決が、この数年、韓国の司法から相次いで出たことで、日韓両政府は厳しい試練を受けている。だがそんな中、当の司法の側から2021年に入り、従来の判断とは正反対とも言える、日本政府側からすると歓迎すべき判決が出始めた。くしくもそれらの判決が出たのはすべて、文在寅(ムン・ジェイン)大統領が対日関係改善を呼びかけた新年記者会見の直後からである。

奏功するか文在寅式「司法介入」

新年早々の2021年1月18日、韓国大統領府(青瓦台)で開かれた文氏の会見を改めて簡単にふり返ると、日本関連での重要なポイントは、次の3点にしぼられる。

「慰安婦判決問題が加わり、少し困惑しているというのが正直なところだ」

「2015年の(日韓)両国間の慰安婦合意を公式的な合意であったと認める」

 「(徴用工裁判で敗訴した日本被告企業の資産が)強制執行方式で現金化されるなどするのは両国関係において望ましくない」

文氏が「加わった」と語った慰安婦判決問題とは、この会見の10日前に出た、日本政府に賠償を命じたソウル中央地裁の判決を指す。これらの発言はつまり、いずれも日本政府や企業に賠償を命じた司法判決に対し、行政府をあずかる国のトップとして、それ以前よりも一歩踏み込んで否定的な見解を示したことになる。

この会見の後の3月末、韓国政府や原告側の関係者らが驚く判断が司法から出る。日本政府に賠償命令した先の判決を受けて、訴訟費用として日本政府資産の差し押さえを求めた原告に対し、裁判所が自主的に「国際法に違反する恐れがある」と判断したのだ。さらに翌4月には、日本政府への賠償を求めた同種の慰安婦訴訟で、日本の主権免除(国家には他国の裁判権が及ばないとする国際法上の原則)を認め、原告の訴えを却下した。つまり、1月に出され、すでに確定した判決と反対の判断をした。

徴用工裁判でもこのような流れは続く。元徴用工の遺族らが日本企業16社を訴えた裁判で6月、国際法を重視する形で原告の訴えを却下した。大法院(最高裁)の判断と真っ向から食い違う判決だった。

これらの判決をめぐり、さまざまな臆測が流れた。裁判所が文政権の意向を忖度(そんたく)し、強硬姿勢をとっている時には日本に厳しく、関係改善を強く呼びかけるようになってからは融和的な判決を出すようになったのではないか。あるいは、政府側が司法に対して何らかの要請をしたのではないか、といった指摘である。

もしそうであれば、日本関連の判決で先延ばしを要請した朴槿恵(パク・クネ)・前政権に対し、政権と司法の癒着だと厳しく糾弾したにもかかわらず、同様の呼びかけをしたことになり、批判は避けられない。

韓国司法の積極主義は加速

だが文政権の置かれた現状からみると、いずれの可能性も極めて低いとみられる。そう考えられる理由のひとつは、この間、大統領府や韓国外交省はことごとく判決の予想をはずしていたことである。1月の慰安婦裁判では、日本政府が主張する主権免除が適用され、原告の訴えは却下されるだろうと踏み、実際に日本側との協議でも、その見立てを伝えていた。逆に、主権免除を認めた4月の判決前は、1月と同種の裁判であることを考慮し、原告勝訴を前提とした対応を準備していた。

さらに、日本政府の主張をある程度反映した一連の判決を、文政権が必ずしも歓迎していない、つまり対日関係において、大きなプラスには作用しないという点でも、政権の意向を忖度したとの指摘は考えにくい。日本の主権免除を認めなかった判決は、文氏が図らずも漏らしたように「困惑」させたに違いない。しかし、いったんその判決が出て、しかも一審で確定した段階で、正反対の判断が出れば、これまで「三権分立」や「司法判決の尊重」を主張してきた文政権としては、二つの判決のはざまで板挟みになるだけである。

文演説が司法判断に影響を及ぼしたとすれば、それは従来の政府、とりわけ外交当局が唱えてきた「常識」を判決に反映させることの負担感を減らしたということだろう。日本側に賠償を命じた判決は、韓国の司法積極主義に裏打ちされているのは間違いない。行政府が管轄する外交問題にも遠慮なく踏み込んだのはそのためだろう。

他方、文演説後の判決は、韓国外交当局がこれまで堅持してきたスタンスに近いといえる。文政権が発足以来かかえる、民族派と国際派の間を行き来するようなブレが、従来の国際派的立場にある裁判官の判断を後押しした形で、そうであれば、演説による文政権式の「司法介入」は一定の効果があったといえる。

徐々に近づく「Xデー」

だが根本問題として司法としっかり握れているわけではないので、安定性には限界がある。演説から時間が経つと、魔法の効力が薄れるかのように、またぞろ民族派的判断が司法から出始めた。

その一つは6月に出た、日本政府に韓国国内にある財産の目録の提出を命じた決定だ。日本政府に賠償命令をした1月の慰安婦訴訟の判決については、いったん強制執行を否定するような判断が示されたが、判事らの交代により、また元に戻った。

さらに8月、徴用工訴訟で敗訴した日本被告企業に支払われるべき資金(当該企業が韓国内の企業に対して保有する債権)の差し押さえを認める命令を、韓国の水原地裁支部の判事が出した(後に原告が差し押さえ請求を取り下げ、裁判所は命令を解除した)。二国間関係を大きく揺るがしかねない重大な判断を、いくら司法とはいえ、地方裁判所の一つの支部が担っているという現実もいかに日韓関係が危うい状況にあるかを如実に物語っている。

この命令に対し、日本企業側は即時抗告などの手続きを踏むことで、すぐに資産が現金化されるわけではないが、強制執行という「Xデー」にまた一歩近づいた感は否めない。かつて最も韓国に対する強硬論に覆われていたころの日本政府であれば、すでに日本企業に実害が生じた現段階で対抗措置に踏み切っていた可能性が高いとみられる。

そんな不安定な状況の中で、文氏は対日関係で「行動」をとりはじめた。機会あるごとに日本に「対話の門戸は開いている」として、関係改善の意思を表明しながら、7月の東京五輪の開会式に合わせた日本訪問の実現に向け、実務者に協議するよう指示した。いくつかのメディアが順次報じたように、文氏の訪日自体は早い段階で両国間で合意された。だがその後、「成果」をめぐって曲折を重ね、ついには訪日自体が幻という結果に終わる。日本政府内には、文氏がなぜそこまでして日本に来なければならないと考えているのか、真意がつかめないとの戸惑いが広がった。

対日関係悪化の負担感

他方、文氏からすれば、新年の記者会見で踏み込んだように、2021年のうちに何とか対日関係改善の糸口を見つけたいとの思いが強く、五輪訪日問題もその延長線上にある発想だった。

巷間(こうかん)いわれるように、文氏の対日政策をめぐる変化の背景には、ひとつには米国でバイデン政権が発足したことがあるとみられる。トランプ前政権と異なり、同盟関係を重視する新政権は実際に日韓双方に、早期の関係改善を要請している。

ただ、韓国の政治状況や今後の政治スケジュールを考えると、国内的な要素もかなり大きいとみられる。2018年7月の日本政府による、いわゆる韓国向けの輸出規制強化措置により、韓国社会の対日イメージは急速に悪化したが、時間とともに徐々に薄れ始めた。政府間の慰安婦合意を骨抜きにするなど、結果として対日関係を悪化させた代償は、政権末期になって重い負担感として舞い戻ってきている。何とか大きな譲歩を避けつつ、対日関係を上向けることはできないか、真剣に模索している節がある。

さらに現実問題として、自身の後任を選ぶ次期大統領選は来年3月に迫る。秋には与党の公認候補がしぼりこまれ、決定する。司法による強制執行で、いつ爆発するやもしれない難題を新政権、とりわけ与党候補が当選した場合の後任に、そのまま引き継ぐわけにはいかないという事情もある。

しかし、2018年10月に韓国・大法院(最高裁)で日本企業に賠償を命じた判決が確定して以来ずっと、日韓間の最大の焦点は文氏自身の政治判断であり、それができなかった、あるいは避けてきたため、事態はここまで大きくなったとも言える。政権最終盤のゴールが見えてきた段階で、大きな決断ができるかどうか。韓国においてそれは、言い換えれば、国民情緒をとるか国益をとるかの選択でもある。

悲観的な空気に覆われつつも、日韓両政府の実務者たちは、極めて民族主義的志向が強い文政権下で歴史問題を処理することの意義も十分に認識している。日本の政局も大きく関係してくるものの、韓国の事情に特化して考えた場合、何らかの接点が見つかる可能性がわずかにでも残されているのは、大統領選後任候補が決まる10月から年末にかけての時期だけだろう。

(2021年9月9日校了)