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0 0   シーア派(12イマーム派)

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「シーア」とはアラビア語の普通名詞で「党派」を意味するが、宗派としての固有名詞では「アリーの党派」を意味する。イスラムの第一次内乱(656〜661、第4代正統カリフ・アリーとシリア総督ムアーウィアの戦い)でアリーの勢力を「シーア・アリー」、ムアーウィアの勢力を「シーア・ムアーウィア」と呼んだが、アリーが暗殺されてムアーウィアを初代カリフとするウマイヤ朝が成立すると、「シーア・アリー」は単に「シーア」と呼ばれるようになった。内乱の敗北後も、預言者ムハンマドのいとこで女婿であるアリーを真の指導者とするシーア派は、アリーを初代イマーム(一般には高位のウラマーを指すが、シーア派の場合はイスラム教徒の指導者)とし、その継承者はアリーの子孫でなければならないとした。イマームは、預言者ムハンマドの政治的権威と宗教的権威の双方を継承し、不可謬(間違いを起こさない)とされる。スンナ派は指導者カリフについて、原則的に世俗主義的・能力主義的な立場をとっており、シーア派によるこのようなイマームへの宗教的意味付けには、強く反発する。

アリーの子孫のうち、誰をイマームとするかによって、シーア派は次第に分裂し、それぞれの教義を形成していく。そのなかで最大の分派が、12イマーム派である。シーア派は、全イスラム教徒のおよそ1割であるとされる。仮に全人口を12億とすれば、1億2000万人となるが、12イマーム派の信徒はそのうちの7000〜8000万程度を占めると見られる。その大半が、イランとペルシャ湾岸アラブに居住する。人口の内訳(いずれも推定)は、イラン5300万(イラン人口の85%)、イラク1100万(同55%)、レバノン100万(同30%)、サウジアラビア100万(同7%)、バハレーン30万(同55%)などである。イラクのナジャフ(アリーの廟がある)やカルバラー(アリーの次男である第3代イマーム・フセインの殉教地)、イランのイスファハンやコムが、その宗教諸学の中心地である。

12イマーム派はその名の通り、アリーとその子孫12人をイマームとする。第12代イマームのムハンマド・アルムンタザルは、874年に「隠れ(ガイバ。死亡ではなく、どこかにお隠れになっている状態)」の状態に入り、いつの日か「再臨(ルジューウ)」して、信徒を救済するとされている。12イマーム派の法学派をジァアファル法学派といい、ウラマー(法学者)はマジャエ・タグリード(模倣の源泉)を頂点に、アーヤットラー・オズマ、アーヤットラ−、ホッジャトル・イスラムと続く位階制を有する。ただし、上記「隠れ」の時期の信徒への指導をめぐり、法学者のなかで論争があり、2つの学派に分かれた。12人のイマームの決定や判断から法学者は逸脱できず、新たな立法はできないとするのがアフバーリー学派であり、法学者は独自の判断により立法ができるとするのがオスーリー学派である。

イランでは、18世紀にオスーリー学派が勝利を収め、79年イラン革命のイデオロギーであるホメイニ師の「法学者の統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ。ウラマーは宗教的指導や政治権力への監督・指導のみならず、政治的実権を確立し行使できる)」は、このオスーリー学派の見解の延長線上にある。一方、イラクをはじめとするアラブ世界の12イマーム派は、現在でもアフバーリー学派が支配的であり、その教義からすれば「法学者の統治」とは相容れない。しかし、アラブ世界の12イマーム派にも、イラン革命やその政体に支持や共鳴を示す人々が多かった。ただし現在では、イランの現状に対する評価から、一般信徒のイラン革命への共感は薄れていると考えられる。


(グローバル・イシューズ主任研究員 松本 弘