イラクのイスラム系反体制派組織は、シーア派アラブ人、スンナ派アラブ人、スンナ派クルド人によるものを合わせ、総計20に及ぶ。そのなかで、より大きな勢力や影響力を有するのは、やはり人口の60%を占めるシーア派アラブ人による諸組織である。それらの主要なものは、有力な法学ウラマーを指導者としている。イラクのシーア派法学者は、12イマーム派の法学であるジャアファル法学派のなかのアフバーリー学派に属する(イランの法学者はオスーリー学派、キーワード「シーア派」参照)。彼らは、出身ハウザ(宗教学校であるマドラサの集合体)によりナジャフ系とカルバラー系に別れるが、前者のほうが勢力は大きい。上記チャートは、そのナジャフ系の主要なウラマーの系譜と反体制派組織の概略を示したものである。

 イラク・シーア派ウラマーの巨人は、ムハンマド・バーキル・サドル師である。1950、60年代、世俗主義や共産主義の拡大に危機感を抱いたマルジャア・タクリード(注)のムフシン・ハキーム師は、ウラマーが従来の伝統墨守の姿勢を改め、新たな運動を展開する必要性を説いた。これに対し、ムフシン・ハキーム師の死後にマルジャア・タクリードとなるアブー・カーシム・ホイ師は、アフバーリー学派の伝統に則り政治不介入の立場をとった。アブー・カーシム・ホイ師の高弟であったムハンマド・バーキル・サドル師は、師匠の政治不介入に反発し、ムフシン・ハキーム師の影響を強く受けて、1957年にイスラム・ダアワ党を設立した。イスラム・ダアワ党は、現在に至るまでイラク最大のイスラム組織であり、多くの反体制組織がここから分派していった。ムハンマド・バーキル・サドル師は、ウラマーが世俗の政治機構を監督・指導する「法学権威の指導」を提唱し、これによるイスラム法の統治やイスラム国家の建設を説いた。79年イラン・イスラム革命のイデオロギーとなったホメイニ師の「法学者の統治(ウラマー自身が政治的実権を握り、統治を行なう)」は、この「法学権威の指導」から大きな影響を受けたと言われる。

 しかし、イスラム・ダアワ党はバース党政権から度重なる弾圧を受け、70年代に幹部の逮捕、処刑が続いたあと、ムハンマド・バーキル・サドル師自身も80年に処刑された。このため、多くのウラマーがイランに亡命し、その一部は82年にイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)を設立した。現在の議長ムハンマド・バーキル・ハキーム師および幹部のアブドルアジーズ・ハキーム師は、ムフシン・ハキーム師の息子である。彼ら自身はイスラム・ダアワ党出身ではなく、父の威名に依存する面が大きいが、SCIRIのメンバーにはダアワ党関係者を多く含んでいる。ちなみに、カルバラー系のウラマーを指導者とする反体制派組織、アマル・イスラミーヤ(イスラム行動機構)も本部をテヘランに置いている。

 イラクでは、90〜91年湾岸戦争時にアブー・カーシム・ホイ師が政権により軟禁され、92年に死去した。その後は、高弟でアーヤットラー・オズマのアリー・シスターニー師が師匠の政治不介入を受け継ぎつつ、ナジャフで信者の指導に努め、ホイ師の息子であるアブドルアジーズ・ホイ師は、ロンドンに本部を置くホイ慈善財団を運営した。一方、ムハンマド・バーキル・サドル師の従兄弟であるムッラー・サドル師は1959年にレバノンに移り、シーア派政治組織アマル(レバノン抵抗軍団)を設立した。もう一人の従兄弟、ムハンマド・サーディク・サドル師はイラクで活動を続けたが、99年にフセイン政権より暗殺された。

 その遺志を継いだ息子のムクタダー・サドル師の支持者たちは、ニ代目サドル・グループという組織を作る。この組織は武装しており、そのメンバーが4月10日にアブドルアジーズ・ホイ師をナジャフのイマーム・アリー・モスクで暗殺し、4月12日にはアリー・シスターニー師の自宅を包囲して、国外退去しなければ殺害すると脅迫するとともに、テヘラン在住のムハンマド・バーキル・ハキーム師(SCIRI議長)に対しても、ムクタダー・サドル師の権威を認めなければ殺害すると脅迫していると報道された。

 言わば主流に位置するアリー・シスターニー師は、その政治不介入の立場とあいまって、実質的にフセイン政権と共存せざるを得なかった。それとは逆に、ムハンマド・バーキル・サドル師の処刑後も、国内でその同志として反体制の活動を続け、ついには自らも暗殺されたムハンマド・サーディク・サドル師には、熱狂的な支持者たちがいる。彼らは「法学権威の指導」の信奉者であり、フセイン政権の影響下にあったアリー・シスターニー師やロンドンに在住していたアブドルアジーズ・ホイ師が、その政治不介入の立場のまま、フセイン後のシーア派指導者となることに、強烈な反感を覚えるのだろう。

 今後は、イラク新体制におけるシーア派の位置付けが問題となるが、そこでのひとつの焦点は、アブー・カーシム・ホイ師の死後、空位となっているマルジャア・タクリードである。このまま空位が続く可能性もあるが、最有力者はやはりアーヤットラー・オズマのアリー・シスターニー師であろう。しかし、彼には上述したフセイン政権との関係がある。SCIRI議長のムハンマド・バーキル・ハキーム師は、ウラマーを輩出する有力家系ハキーム家出身で血筋は申し分ないが、亡命先であるイランの影響力が懸念材料となっている。同じくムクタダー・サドル師も、ウラマーを輩出する有力家系サドル家の出身だが、宗教指導者としては年齢が若すぎ、彼を担ぐ支持者たちも多数派には程遠い。おそらく、何らかの「名誉回復」ののちにアリー・シスターニー師がマルジャア・タクリードになるか、彼と同等のウラマーもしくは高弟が、マルジャア・タクリードになる可能性が大きいと思う。その場合は、伝統的な政治不介入が改めてシーア派住民に意識されることになる。いずれにしても、マルジャア・タクリードに関わる動向は、イラク新体制におけるシーア派住民の政党や選挙活動、投票行動に大きな影響を及ぼそう。

line

(注)マルジャア・タクリード
 ウラマーには、神学者(ムタカッリム)と法学者(ファキーフ)がいる。マルジャア・タクリード(模倣の源泉、ペルシャ語ではマルジャエ・タクリード)とは、12イマーム派法学者の最高位の呼称。ジャアファル法学派では、解釈権もしくは立法権を有する法学者に、下からフッジャトル・イスラム、アーヤットラ―、アーヤットラー・オズマ(大アーヤットラ―)、マルジャア・タクリードと続く位階制がある(ちなみに、イランのハタミ大統領はフッジャトル・イスラム)。位階制が現在のかたちになったのは、19世紀とさほど古くはないが、その昇進は極めて中世的な方法で行なわれる。イランでは、フッジャトル・イスラムは長い研鑚の末に、レサーラ・アマリエと呼ばれる信者への指導に関わる書物を著し、それが高い評価を受けると、周囲からアーヤットラ―を自ら名乗ることを非公式に薦められる。この薦めに応じてアーヤットラ―を名乗り、それに対する反対がなければ、アーヤットラ―となる(ちなみに、イランのハメネイ最高指導者は最近アーヤットラ―になったと言われる)。アーヤットラー・オズマも同様であるが、マルジャア・タクリードは異なる。マルジャア・タクリードは、基本的にはアーヤットラー・オズマと同義であるが、その定義はあいまいである。その実質的な基準は、信者がアーヤットラー・オズマのなかの誰にシーア派の宗教税(フムス)を支払っているかにある。すなわち、マルジャア・タクリードは、信者によって選ばれる。アーヤットラー・オズマは極めて少数であるため、実際にマルジャア・タクリードとなりうるウラマーは限られているが、原則的には信者は誰を選んでも構わない。それゆえ、マルジャア・タクリードがいない時期も、複数いる時期もある。信者は、自らが選んだマルジャア・タクリードにフムス(収入の20%)を支払い、マルジャア・タクリードを頂点とするマルジャイーヤと呼ばれる組織がその収入を管理、運営する。その金額は莫大なもので、たとえばイランでは79年革命の資金に用いられたし、イラクのホイ慈善財団の資金にも、これが充てられている。

(4月15日、松本 弘)