日中友好団体機関誌アーカイブ
日中友好団体機関誌アーカイブとは
1972年に日中国交正常化が実現する以前にも、様々な「日中友好団体」が民間交流を行っており、 彼らが1972年以前に発行した機関誌を閲覧できるwebサイトです。 関係各団体の好意と協力により歴史的な価値の高い史料を集積してデジタル化し、データベースを構築しました。
共産圏の情報が限られ、冷戦下でイデオロギー対立も激しかった時代に、人々は中国情勢や日本の対中国政策をどのように見ていたのでしょうか。 要人の寄稿や『人民日報』からの引用と言った形で、当時から中国側のナラティブが日本での議論に影響を与えていた可能性も窺えます。 日中国交正常化という戦後日本政治外交史における大きな出来事を、当時の政治や経済、文化といった多様な側面から理解するためにご利用ください。
日中友好運動関連史料のデジタル化について(解説:川島真・東京大学教授)
かつて日本でも中国への「親しみ」が八割前後もあり、日中友好が多くの人に唱和された時代があった。 現在、とりわけ若い世代にはそのような時代を肌感覚で理解するのは難しい。 戦後初期から進められた日中友好運動、そして日本の対中好感度が極めて高かった時代は、 すでに「歴史」になった、またあるいは少なくとも「歴史」になりつつあるということだろう。
このプロジェクトでは、肌感覚で理解することが難しくなってきている、かつての日中関係、とりわけ日中友好運動について、 その内容や背景、時代の雰囲気というものに接近する手がかりを使いやすい形で提供することを目指す。 まずはその運動を進めた日中友好諸団体発行の会報、新聞などに着目してそれをデジタル化し、データベースとして広く利用に供するものである。 現在の肌感覚で分かりにくいものだからこそ、ぜひこの史料を通して当時の「運動」にアプローチしていただければと願うものである。
【2023年10月】
掲載機関紙毎の解説文は以下からご覧ください。
『日本と中国』 公益財団法人日本中国友好協会
『日本と中国』解題
川島真・東京大学教授
『日本と中国』は、日本中国友好協会(以下、日中友好協会)の会報である。1950年2月9日に第一号が刊行され、現在まで発行されている。その時々の中国情勢、日中関係に関わる事象について報道し、また時には日中友好協会としての見方、立場を示し、そして同協会の地方支部の活動を伝えるなど、会員相互の連絡機能も果たしていたと考えられる。無論、日中友好協会としての立場が反映された記事が少なくないが、寄稿原稿などもあり、それぞれの時期の日本の言論の一端を垣間見ることができるし、これまであまり注目されてこなかったテキストや歴史的事実も多分に含まれていると考えられる。
周知の通り、日中友好協会は1966年以降、分裂状態にある。この分裂は、ベトナム戦争や中ソ対立の激化を背景に、日本共産党と中国共産党との関係が悪化したことを受けて生じたものである。中国共産党と距離を取ることにした日本共産党の系統に属する日中友好協会は、『日中友好新聞』を発行し続けた。中国共産党と日本共産党との関係改善を受けて、1990年代後半にはこの協会も中国共産党との関係を修復した。
他方、1966年に中国との交流を重視し、日本共産党と距離を取ることにした系統に属する日中友好協会は、「日中友好協会(正統)」を名乗った。この組織は、会報である『日本と中国』を刊行し続けた。この日中友好協会の「分裂」について『日本と中国』は、「10月25日の日中友好協会常任理事会で、私たちは、この共同声明の承認を拒否したひとにぎりの非友好常任理事ときっぱり手を切りました」(『週刊 日本と中国』復刊第一号、日本中国友好協会(正統本部)、1966年11月21日)などと伝えている。
このデータベースは、1950年2月20日の第1号から1975年12月15日の復刊第433号までを採録している。日本の対中感情が極めて悪化し、八割以上が中国に「親しみ」を感じない状態にある現在、八割近くの人々が中国に「親しみ」を感じていた時代のことはもはや歴史である。ましてや、戦後初期から日本と中華人民共和国との関係の進展を望んだ人々の動機や活動に至っては、現在の、とりわけ若い世代からはなかなか想像し難い。この『日本と中国』という史料は、果たして「日中友好運動」とはどのようなものであったのか、ということを理解する上での基本史料だと言えるだろう。
ただ、この史料を歴史研究で使用する場合には留意が必要だ。どの史料にも言えることだが、史料には限定性がある。この史料に記されていることは、基本的に日中友好協会という特定の組織の立場に基づく。また、日中友好運動も多様で、この組織が全てということでもない。ただ、これらの限定性を踏まえても、この史料がこのようにデジタル化された意味は大きい。「日中友好運動」という現代史の一側面を理解する手がかりを、この四半世紀分の史料が与えてくれるであろう。
【2023年10月】
『国際貿易』 日本国際貿易促進協会
『国際貿易』解題
川島真・東京大学教授
『国際貿易』は、1954年に発足した国際貿易促進協会(以下、国貿促)の機関誌(当初週刊)であり、現在に至るまで刊行されている。国貿促は日中友好団体の一つとして知られ、日中貿易の促進を旨とした組織である。その活動は、特に日中国交正常化以前であれば、まさに「日中民間貿易」を担った友好商社をはじめ、多くの関係企業の集う組織であった。
『国際貿易』は1967年6月2日に刊行された。文化大革命が発生した1966年、日本の日中友好運動は分裂の危機に直面し、中国との直接交流も従来通りには進行できなくなっていた。国貿促は、中国との直接貿易を重視するので、当然中国共産党と距離をとった日本共産党側を批判することになる。創刊号を見ると、天津科学機器展覧会への日本からの出品を品物の船への積載五日前になって通産省が差し止めたことが大きな問題として提起されている。文化大革命の時期にもこのような経済交流が推進されていたことも含めて改めて気付かされることが少なくない。なお、創刊号以来、『国際貿易』には「日共の反中国 黒い報告書」などといった記事が掲載され、日本共産党批判が展開されていたことも、国貿促の政治的スタンスを示すものとなっている。
このデータベースには1967年6月2日の創刊号から、1972年12月12日刊行の257号までを採録している。日中国交正常化を報じた1972年10月3・10日の248号には石橋湛山が寄稿している。このデータベースに掲載された『国際貿易』を通じて当時の日本の経済界の中国市場への期待や、国交正常化以前から行われていた「民間貿易」を推し進めた友好商社などの企業の活動やスタンス、そしてそうした経済貿易活動が国交正常化を支持する世論にも一定程度関わっていたことなどがうかがえるであろう。
【2023年10月】
『日中文化交流』 一般財団法人日本中国文化交流協会
『日中文化交流』解題
川島真・東京大学教授
『日中文化交流』は、1956年3月に成立した日本中国文化交流協会(以下、日中文化交流協会)の会報(月刊)であり、創刊号は1956年9月1日に刊行された。日中文化交流協会は、文化関係者による日中友好団体で、初代会長は日本社会党委員長を務めた片山哲元総理であった。国交がない状態の中で、日中文化交流協会は、中国人民対外文化協会との間で「日中文化交流協会に関する申合せ」を締結し、それに基づいて交流を実施していった。
創刊号の巻頭言が女優の乙羽信子による「中国の印象」であったように、「文化」の範囲は幅広く、書道や絵画、文学などから、伝統芸能、演劇、映画、学術、そしてメディアや芸能界、スポーツ、宗教もそこに含まれていた。『日中文化交流』は、巻頭に日中双方の各界を代表する人物による巻頭言が掲載され、様々な交流イベントの計画や結果、交流日誌、また様々なエッセイや論説も掲載されている。書き手には倉石武四郎や藤堂明保、西順蔵、あるいは井上清のような研究者から宇都宮徳馬、西園寺公一などに及び、中国側の書き手には郭沫若、巴金の名も見える。その論調は、文化大革命期にそれを基本的に支持したように、中国に「寄り添う」ことを基調としている。興味深いのは、創刊号が6頁だったものが、1961年6月30日の50号には16頁となり、1966年1月1日の100号が28頁となったように、文化交流活動の進展に伴って分量が増加していることである。
このデータベースは、1956年9月1日に刊行された創刊号から1972年12月1日の188号までを採録している。これまで日中国交正常化以前の日中関係については、政治や経済を中心に論じられてきたが、文化大革命の時期にあっても文化交流は一定の制限下で継続していた。この『日中文化交流』は、この時代の「日中友好運動」の多様性や広がりを知る上でも重要な史料であろう。
【2023年10月】
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