
「国問研戦略コメント」は、日本国際問題研究所の研究員等が執筆し、国際情勢上重要な案件について、コメントや政策と関連付けた分析をわかりやすくタイムリーに発信することを目的としています。
はじめに
21世紀の国際社会は、依然として大国による一方的な行動が国際秩序を揺るがす現実に直面している。2022年に始まったロシアによるウクライナへの全面侵攻は、2026年現在もなお終結は遠く、国際人道法の違反が日常的に報告されている。東アジアでは、南シナ海における中国の覇権志向的行動が地域の緊張を高め続けている。2016年の仲裁判断を無視し、独自の法解釈に基づき軍事拠点化を進める中国の姿勢は、国連海洋法条約を基盤とする海洋秩序への挑戦と見なされている。
こうした大国による一方的行動を目の当たりにし、国際法に対する落胆や批判の声がかつてなく高まっている。SNSや一部の論壇では「国際法は無力だ」「結局は力の論理が支配する」といった言説が溢れ、国際法の存在意義そのものを問う声も少なくない。こういった批判の多くは、国際法が遵守されず、また、遵守されないことに対する国際社会の対応が実効的でないという現実を根拠としている。確かに、国際法秩序の護り手として設計された国連安全保障理事会は拒否権という構造的な問題点を抱えているし、その中核ともいえる常任理事国自身が武力不行使原則に違反している現実を踏まえると、こうした批判には妥当な面があると言わざるを得ない。
しかし、このことは必ずしも「国際法は不要である」とか「単なる理想論に過ぎない」といった結論を導くものではない。国際社会には無数の条約や慣習法が存在し、ルイス・ヘンキンの著名な言葉を借りれば、「殆ど全ての国は、殆ど全ての場合において、殆ど全ての国際法の原則および殆ど全ての義務に従っている」。いかなる軍事・経済大国であっても国際法によって規律される国際社会から完全に離脱することは事実上不可能であり、ましてや日本がそのような立場を選択することは現実的ではない。
国際関係や外交安全保障を論じる上で肝要なのはむしろ、国際法は無力か否かという二元論的な問いに答えることではなく、国際法の現状に対する素朴な問題提起の解像度を高め、実社会との接点を踏まえた建設的な議論へと繋げる姿勢であろう。このような問題意識に基づき、本コラムでは「国際法は無力だ」という直感を「次」へのステップへ繋げる足掛かりの一つとして、当該問いが国際法にどのような期待を寄せ、どのような現実に裏切られたのかという期待と現実の乖離を軸として、直感から分析への架け橋を提供する。
「国際法は無力」論の問題点
「国際法は無力」論の多くは、暗黙のうちに、国際法に対して国内法と同等の執行力(ここでは物理的強制をもって違法状態を解消する力を意味する語として用いる)を期待している。法を名乗る以上、その規範の遵守は違反に対する執行という威嚇によって確保され、ひとたび違反が発生すれば警察などの法執行機関に相当する組織によって強制的に違法状態が解消されるべきであるということである。
この期待のレンズを通して国際社会の現実を眺める時、その現状は失望を伴うものとなるだろう。世界各地で頻発する武力紛争は国際法の「遵守」が脅かされる様子そのものであり、国際機関の決定に基づき大規模な軍事力が動員され侵略国の野心を挫くという「遵守に向けられた強制」は、1990年の湾岸戦争を最後にその姿を潜めている。このような現実が「国際法は現に守られていないではないか」「違反しても罰せられないではないか」という直感的で分かりやすい批判を惹起するのは無理もないことだろう。
では、国際法に執行力を期待することは、そもそも合理的なのだろうか。この点、国際社会には国内社会における警察組織や裁判所のような、法の実効性を物理的強制力によって担保する中央集権的な機関が存在しない。現行の国際法上、国連安全保障理事会は国際の平和及び安全の維持のために軍事的措置を講ずる権限を有するが、当該権限は常任理事国の拒否権によって容易に麻痺させられてしまう。また、拒否権が頻繁に行使される現状は、拒否権のような抜け穴の存在しない中央集権的な執行機関の創設が非現実的であることを示している。加えて、仮にそのような機関の創設が合意されたとしても、執行者と執行対象となる国家、特に大国との間の実力差を国内社会における警察と個人の関係に相当するレベルにまで引き上げることは、核兵器の存在を鑑みれば極めて困難と言わざるを得ない。
このことを踏まえると、国際法に対して国内法と同程度の執行力を期待する「国際法は無力」論の論法は、いわば自動車に「なぜ空を飛べないのか」と問うことに等しく、期待と現実の乖離をどう埋めるかといった建設的な議論に繋がりにくい。先述のように国家が国際法によって規律される社会から背を向けられない以上、国際法への期待は、乖離を埋める試みが現実的な範囲で設定されるべきである。
国際法に期待しうる3つの機能
では、国際法には何を期待すべきなのだろうか。本稿は、国際法学者の大沼の提示する国際法の機能を手掛かりに、国際法が現代の国際社会において果たしうる、すなわち国際法に合理的に期待できる機能として、以下の3点を提示したい 。
1点目は、間接的な遵守確保機能である。大沼が指摘するように、国際法には国家の行為に正当性および正統性を与え、あるいはこれを否定する機能が存在する。国際法に違反する行為は不当および正統性無き行為とみなされ、他国は当該評価に基づき違反国を非難し、場合によっては各種の制裁を行う。また、国際法に違反したという事実は違反国の国際的な信頼を低下させ、互恵的な枠組みへの加入が困難となる等、長期的な不利益を伴うことになる。これらの外交的・経済的コストは国内社会における法執行による威嚇と同様に、国際法違反の意思決定を行うハードルを高め、あるいは継続中の違反状態を解消するインセンティブを働かせる。このコストは大国であっても完全に無視することはできず、例えば、ウクライナに侵攻したロシアが自国の行動を国際法上適法な自衛権の行使であると言い張っている事実はその証左である。
2点目は、国家間のコミュニケーションを補強する共通言語としての機能である。国際社会において国家は常に他国とのコミュニケーションを必要としており、このことはたとえ戦争中であっても例外ではない。例えば、文化や価値観が全く異なる国との間で、相手が仕掛けてきた戦争の是非や捕虜および文民の虐待の是非につき議論し、紛争を終結させることの困難は想像に難くないだろう。国際法は、法的主張という議論の枠組みを提供することで、この困難を緩和する機能を有している。
3点目は、国際社会の共通認識を具体化し、諸国家の行動の指針となる機能である。国際法はこれまで、武力の不行使や公海の自由、自由貿易、人権尊重、環境保護といった様々な価値を国際社会に提示し、当該価値を国家の義務という形で具体化してきた。確かに、これらの価値及び義務については、細部においては解釈の相違や変遷もあるし、義務違反が発生したケースも無数に存在する。しかし、今日において公海自由の原則や武力不行使原則の存在を真っ向から否定する国家は存在しないし、当該原則を補強するように様々な条約や慣行が蓄積されている。このように、国際法には国際社会に対して一定の価値を提示し、長期的に国家の行動を収斂させていく機能が存在する。
これらの機能は、確かに国内法と比べると法の規範内容を実現する力としては控えめなものとなっている。しかし、国際法は一度の執行で問題を処理することはできずとも、国家の行動範囲を漸進的に限定していく形で規範の内容を実現する法である。ここで挙げた3つの機能は、国際社会の構造を踏まえてなお国際法に合理的に期待できるものと言えるだろう。
国際法に対する合理的期待と現実の乖離
しかし、これらの期待が必ずしも現実と合致しているとは限らない。例えば、ロシアによるウクライナへの全面侵攻のような明らかな国際法違反に対して、国際社会は一致団結して批判や制裁を行うに至っていない。国連総会における対ロシア非難決議では、40か国が反対・棄権に回り、経済制裁も「抜け穴」の存在によってその効果が減殺されている。このことは、大国の国際法違反に対して間接的な遵守確保の機能が十分に果たされておらず、理想と現実の間に乖離が存在することを示している。
また、「私は国際法を必要としない」といったアメリカ大統領の発言は 、上記の3つの機能の基盤を構成する国際法を遵守すべしという価値観そのものの否定に繋がりかねない危険なものである。もちろん、政権の如何にかかわらず、アメリカがこれまで概ね国際法を遵守し、国際法秩序の維持に様々な形で貢献してきた点は看過すべきではないし、これから先もそうあり続けるだろう。他方で、そのような国の指導者が公然とこのような姿勢を示すと、第三国においても同種の政策的な言説が横行する事態に陥りかねない。
さらに、近年権威主義国家によって頻繁に展開される現行の国際法は一部の西側諸国に押し付けられた価値観によるものであるという主張も、国際法の3つの機能を脅かすものである。確かに、国際社会の普遍性は過度に神格化されるべきではなく、国際法自身も地域的な法の発展や地域に根差した価値観を反映した条約や慣習法を否定してはいない。他方で、これが行き過ぎると違反に対する国際社会の対応も鈍り、諸国間の共通言語としての機能も阻害され、提示された価値に基づく国家行動の収斂といった現象も期待できなくなってしまう。
このように、国際社会の構造を踏まえた国際法の機能にも、期待と現実の間には乖離が存在している。国際法が真に直面している課題は、執行力の欠如というよりむしろ、これらの合理的に期待されるべき機能すら十分に作用していない点にあると言えるだろう。
しかし、この種の問題は一朝一夕に解消されるものではない。例えば、国際社会の足並みを揃えた批判・制裁といっても、違反国との政治的・経済的結びつきが強い国にとっては国際法の機能強化と違反国との関係性を天秤にかけなければならない状況もあり得るだろう。また、国際法の、あるいは特定の国際法規範の正統性に関する議論も、自国の違反を正当化する目的のみに基づき行われたものもあれば、本当に斟酌すべき背景によるものもあるだろうし、当然両者の境が曖昧な状況もあり得る。国際法が遵守される社会の創出が国家の至上目標ではない以上、期待と現実の乖離をどう解消するかは、国家の外交目的に照らし慎重な検討が必要となる。
乖離を埋める努力の必要性
以上をまとめると、まず、巷に溢れている「国際法は無力」論は国際法に国内法類似の執行力を期待するが故に発生する期待と現実の乖離を根拠としているものが多いが、これは国際社会の構造を無視した不合理な期待であり、建設的な議論に繋がりにくい。国際法には合理的に期待し得る機能として間接的な履行確保機能、国家間の共通言語や議論の枠組みを提供する機能、一定の価値観を提示・具体化し国家の行動を長期的に収斂させていく機能が存在する。他方で、これらの機能もまた期待と現実の乖離が存在しており、当該乖離の解消は今後の国際社会の課題である。
当然のことながら、国際法の意義を巡る多様な論点や膨大な先行研究に鑑みると、本稿の検討や提示した論点は複雑な議論へのささやかな導入に過ぎない。他方で、現在進行形で国際法が踏みにじられる中、「国際法は無力だ」という素朴な実感を勉強不足と切り捨てるのもまた、健全とは言い難い。このような情勢を踏まえて必要とされるのは、国際法を賛美することでも、逆に断罪することでもなく、国際法の外交的意義への洞察を深めることを通じて、そのような実感と建設的な議論との架け橋となることであろう。国際社会は依然として国家が大きな力を持っているとはいえ、国家の意思決定は結局のところ個々人の判断の集積であり、その前提となる社会的環境の影響から自由ではありえない。主要メディアやSNS上の言説、企業やNGO等の発信は、政策決定を地盤から支える「常識」を形成し、ひいては国家の選択を方向づける。そのような「常識」の解像度の向上に向けて、本稿がその一助を担えればと考える次第である。
- Onuma Yasuaki, “International Law in and with International Politics: The Functions of International Law in International Society,” European Journal of International Law, Vol. 14, Issue 1 (2003), pp. 105-139.
- David E. Sanger and others, Trump Lays Out a Vision of Power Restrained Only by ‘My Own Morality’, at https://www.nytimes.com/2026/01/08/us/politics/trump-interview-power-morality.html