領土・歴史センター

竹島(現在の鬱陵島)で亡くなった伯耆高田屋の又蔵について

2022-01-28
舩杉力修(島根大学法文学部准教授)
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竹島(現在の鬱陵島)で亡くなった伯耆高田屋の又蔵について

令和4(2022)年1月28日

公益財団法人日本国際問題研究所

日本国際問題研究所では、領土・主権・歴史の分野において、調査研究及び対外発信事業を実施するため、平成29(2017)年に「領土・歴史センター」を設置しました。同センターでは、①わが国の領土・主権・歴史に関する国内外の資料の収集・整理・対外発信等、②同分野に関する国内外での公開シンポジウムの実施、及び③同分野に関する調査研究の実施等の事業を展開しています。

平成30(2018)年度からは、明治38(1905)年竹島の島根県編入前における竹島の状況を明らかにするため、島根県隠岐地方を中心に、山陰地方において竹島関係の史料調査、聞き取り調査を、舩杉力修(ふなすぎりきのぶ)・島根大学法文学部准教授及び、升田優(ますだゆう)・島根県竹島問題研究顧問に依頼して実施しています。令和元(2019)年度からは、米子市や琴浦町など鳥取県内でも調査を実施しています。

その結果、伯耆国八橋郡八橋町(現在鳥取県琴浦町)の廻船業者で、伯耆高田屋の初代高田屋喜兵衛の三男又蔵は、下関で廻船業を営んでおり、文政3(1820)年4月に竹島(現在の鬱陵島)で亡くなっていたことが判明しました。

伯耆高田屋は、摂津国兵庫津の廻船業者の高田屋嘉兵衛の姻族にあたり、同じ淡路島の出身で、初代堺屋喜兵衛(後に高田屋喜兵衛)は、嘉兵衛兄弟全部の面倒をみて、兄弟たちは廻船業を身につけることができました。また高田屋嘉兵衛の廻船業者としての活躍は、喜兵衛とともに、両高田屋の相互扶助の協力体制により成り立っていました。

令和3(2021)年10月に報道発表を行った、文政3(1820)年10月自序の石見国の地誌『石見外記』によれば、高田屋嘉兵衛の帆船は、蝦夷地を目指す際には、日本海で竹島(現在の鬱陵島)、松島(現在の竹島)を航海の目印にして、北東方向へ進んでいたことが記載されていることから、当時松島(現在の竹島)は異国とは認識されず、日本領と認識されていたことが確認することができました。今回の調査成果により、『石見外記』の記載とともに、当時の松島が日本領と認識されていることを改めて確認することができました。すなわち、現在の竹島がわが国固有の領土であることを補強するものであるといえます。

その概略は別紙のとおりです。なお、別紙は、調査者の個人的見解であり、日本国際問題研究所の見解を代表するものではありません。

<別紙>

執筆者 舩杉力修・島根大学法文学部准教授(歴史地理学)

別紙1 研究成果の概要
別紙2 高田屋嘉兵衛と伯耆高田屋の関係(系図)
別紙3 伯耆高田屋・内山家の系図
別紙4 過去帳での高田屋又蔵の記載
別紙5 初代高田屋喜兵衛夫妻の墓
別紙6 初代高田屋喜兵衛の四男文五郎(墓には「高田屋文五良」と記載)
別紙7 3代目高田屋助五郎の妻の墓
別紙8 『昔日叢書』での高田屋又蔵の記載
別紙9 「大御國環海私圖」(日本国際問題研究所所蔵本)
別紙10 「日本海の海流模式図」(海上保安庁『本州北西岸水路誌』(2017 年刊行所収)