研究レポート

ウクライナ紛争とイスラエル~曖昧路線の舞台裏~

2022-07-20
池田明史(東洋英和女学院大学客員教授・前学長)
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「中東・アフリカ」研究会 FY2022-2号

「研究レポート」は、日本国際問題研究所に設置された研究会参加者により執筆され、研究会での発表内容や時事問題等について、タイムリーに発信するものです。「研究レポート」は、執筆者の見解を表明したものです。

「中立」政策と「人道」支援

2022年2月24日にロシアが一方的にウクライナへ軍事侵攻を開始し、欧米がこぞってこれに反発してウクライナに対する軍事支援や対ロシア制裁に動く中、中東における欧米の有力な戦略的盟友とみなされていたイスラエルは、慎重に欧米への政治的外交的同調を回避し「中立」の立場を明らかにした。ウクライナの要請する兵器や兵站等の移送を拒否し、ロシアに対する各種の制裁措置への参加を見合わせる一方で、これとのバランスを取るかのようにして迅速かつ有効な「人道支援」を開始し大々的に喧伝した。他国に先駆けてウクライナ領内に野戦病院を開設し、開戦後1週間足らずのうちに医療資材・必需物資100トンを運び込むなど、前例のない規模での支援態勢を構築したほか、イスラエルへの避難民受け入れも決定している。もともとユダヤ人「帰還民」には無条件で受け入れ・市民権付与を定めた「帰還法」が適用されるが、非ユダヤ系避難民に対しても当初5千人を上限として臨時的な受け入れを表明した。

中立・等距離を唱えつつ、しかし相当規模のウクライナへの人道支援を前景化させたイスラエルのベネット大連立政権(当時)の姿勢は、国民の7割~8割がウクライナに同情を寄せる世論に裏打ちされたものであった。他方で、ベネット首相は開戦後モスクワを訪問してプーチン・ロシア大統領と会談した最初の外国要人となるなど、この紛争の調停に意欲を示しており、中立路線は仲介者として不可欠だとの理由を掲げてもいる。

拮抗する人口構成・国家安全保障・イラン問題

こうしたイスラエルの曖昧な政策の背景には、主として以下の三つの要因が介在していると考えられよう。第一に、ユダヤ人国家イスラエルの人口構成である。既述の「帰還法」に基づいて、1980年代末の旧ソ連崩壊から90年代にかけて、旧ソ連から最大百万人とも言われるユダヤ系移民がイスラエルに流入した。当時のイスラエル人口が450万人規模だったことを考えれば、この流入が如何に集中豪雨的だったかがわかる。現在、900万人規模となっているイスラエルで、この旧ソ連系ユダヤ人市民はおよそ120万人内外とみられているが、そのうちロシア系40万人、ウクライナ系40万人とほぼ拮抗している(残余は中央アジア系など)。ロシアやウクライナにとどまっている彼らの係累の処遇や動向といった問題もあり、イスラエルは国家としてあからさまに一方に肩入れするわけにはいかない。

しかしそれ以上に重要なのは、イスラエル自体の安全保障にある。いわゆる「アラブの春」の波及によって2011年以降内戦状態にあった北方の隣国シリアに対して、ロシアは2015年にアサド政権側を支えて軍事介入を開始した。ほぼ同時期にやはり政府側に立って介入したイランと連携しつつ、数年後には形成を逆転してアサド政権を勝勢へと導いた。とりわけシリア領空は、ロシアが派出し駐留させている空軍と防空部隊によって完全に掌握されている。イスラエルにとって厄介なのは、シリア領内にイラン系の軍事力が展開し、その勢力を拡幅しつつあるところにある。当初はレバノンのイラン傀儡勢力ヒズボラ―や近隣諸国からの「義勇兵」であったものが、現在はイラン革命防衛隊の正規部隊が投入されつつある。イスラエルが想定している次期大規模武力紛争(「次の一戦」)は、これらシリアのイラン系兵力とレバノンのヒズボラ―とが示し合わせて奇襲・強襲を掛けてくるという「北方戦争」にほかならない。このため、イスラエルが抱える安全保障上の課題は、ミサイルやロケットの精密誘導化といったイランの先端軍事技術・資材がヒズボラ―に移転されることを阻止し、併せてシリア領内のイラン系軍事力の拠点を叩いてその漸減をはかるというところに焦点化される。こうした状況を受けてイスラエルは、戦時と平時との境界線を限りなく曖昧とする「戦間期戦闘(Campaign Between Wars; CBW)」ドクトリンを採用することとなった。しかしながら、このドクトリンの主要な適用戦域はシリアであり、その領空を制御するロシアの黙認なくしては実行不可能である。すでにネタニヤフ前政権時代にイスラエルはロシアとの間にCBWに関するゲームルールで合意しており、ロシアのプーチン大統領は一定の条件や手順の下にイスラエルのイラン拠点攻撃を黙認することとなったのである。

ベネット政権及び今後のイスラエル政権にとってこうしたロシアの姿勢を担保しておくことは「北方戦争」を見据えた安全保障上の大前提であり、ウクライナ問題でロシアを必要以上に刺激できない第二の、そしておそらくは最大の理由がここにある。

最後に、ロシアはいわゆるイラン核合意(JCPOA)再建交渉の一員であり、イランに対する核関連資材・技術の提供国でもある。同合意締結時の米国副大統領であったバイデン現大統領は、トランプ前大統領が2018年に一方的に離脱したこの合意の回復を目指す旨公言しており、イスラエルはその政策に深刻な懸念を抱いている。合意が復活しても、中断中にイランが対抗して進めたウラン濃縮等の状況を鑑みれば、一方でイランが核敷居国家となる時期は相当程度早まっていると見られ、またイランに対する各種制裁の解除・緩和によって中東内外におけるイランの行動の自由が広がるものと考えられるからである。ロシアはイラン制裁解除とロシア制裁解除とをリンクさせようとするなど、バイデン米政権のJCPOA復活「前のめり」姿勢への抵抗因子となっており、その限りにおいて合意の再建を阻止ないし遅延させたいイスラエルと利害は一致する。

「圧力」としてのバイデン来訪

いずれにせよ、上記の諸要因からイスラエルは欧米に同調してウクライナ支持の旗色を鮮明にすることはなかった。ロシアの受忍限度を探りつつ、いわば及び腰の姿勢に終始するイスラエルに対して、戦況が長期化するにつれて欧米の論調は当然ながら厳しさを増した。バイデン米大統領は、当初6月後半にヨーロッパで開催されるG7サミットやNATO首脳会議への参加に合わせて就任後最初の中東歴訪日程を予定していたが、イスラエルについてはイラン問題と並んでこのウクライナ問題での調整が主要なアジェンダとなっていた。調整とは、要するにイスラエルをより欧米側に引き寄せる圧力行使にほかならない。

しかしながら、バイデン中東歴訪日程は6月初頭になって急遽延期され、7月中旬に繰り下げられることとなった。理由は大きく二つある。第一に、イスラエル内政の混乱である。2019年4月以降わずか2年のうちに4回の総選挙を経ても安定多数の政治ブロックが定まらず、事実上の事務管理内閣でしかなかったにせよネタニヤフ政権の最長不倒記録(12年)が続いていた。これに対して2021年3月総選挙では、主要争点は親ネタニヤフか反ネタニヤフかに絞られ、その結果、政策やイデオロギーでは全く異質で多様な諸政党が反ネタニヤフの一点で結節してイスラエル政治史上類例を見ない大連立政権が同年6月に発足した。政治配置では極右政党から右派、中道、左派に属する諸政党と、これもイスラエル政治史上初となるアラブ政党が政権与党に名を連ねた呉越同舟のベネット=ラピド内閣は、良く言えば多様性に富んでいたが、しかし実態は野合そのものにほかならなかった。議会(クネセト)定数120議席のうち、辛うじて61議席を占めるに過ぎないこの政権は、発足当初から1年を待たずに崩壊するとの観測が専らであった。それでも危機に次ぐ危機を何とか乗り越えてきたベネット首相は、しかし、2022年4月に自分が党首を務める右派政党から離反者を出してクネセトでの多数を失い、また6月には重要法案が否決されるなど政局運営に完全に行き詰まった。この結果、6月末にクネセトが解散法案を可決し、11月1日に3年半で5回目となる総選挙が実施されることとなった。この間、事務管理内閣は連立合意に従って中道左派のラピド外相(兼次期首相予定者)が率いる。バイデン米大統領のイスラエル訪問延期は、ひとつにはこうした不透明なイスラエルの政治情勢を受けての決定だった。

第二の理由は、ウクライナ紛争及びこれに伴う対ロシア制裁の長期化によって、国際的なエネルギーや食糧の需給が急速に逼迫し、欧米の経済にもその影響が波及しつつある情勢にある。これによって欧米は、ウクライナにおける戦局の推移それ自体に加えて、エネルギーや食糧の需給緩和に向けての目配りを求められる立場に置かれた。バイデン中東歴訪延期の発表とほぼ同時に、訪問予定地にサウジアラビアを加えることが伝えられたのは、歴訪のアジェンダが変遷した経緯を物語っている。

バイデン中東歴訪とイスラエルから見た暫定的評価

結局バイデン米大統領の中東歴訪は、7月13日~16日の日程で実現した。イスラエルはその最初の訪問国となり、14日には「エルサレム宣言」にバイデン大統領とラピド首相が署名して、米国のイスラエルに対する安全保障への関与が不変であることを確認し、両国が共通の脅威と位置付けるイランの核兵器保有阻止のための協力を強調した。しかし、バイデン大統領はイスラエルの求めるJCPOA再建交渉の期限設定や、イランの行動に対する受忍限度(レッドライン)の明確化などについては言質を与えることなく、従来の外交優先路線を変更させる兆候は見られなかった。ウクライナ問題についてイスラエルが懸念していた「圧力」はなく、むしろ米国はイスラエルによる軍事的な先端技術の研究開発に関心を示しており、とりわけレーザー光線による対空防衛システム(「アイアンビーム」)などへの投資拡大に意欲を示したと伝えられる。イスラエルに続いて訪れたパレスチナ自治政府では、アッバス議長との首脳会談でいわゆる「二国家解決構想」の重要性が再確認され、トランプ前政権時代に冷え込んだ米国と自治政府との関係の修復に取り組むとの点で一致した。

その後、バイデン大統領はイスラエルからサウジアラビアのジッダに直行したが、これに先立ってサウジアラビア当局はイスラエルの民間航空便にサウジ領空の通過を認めるとする声明を発表した。アラビア半島上空の航過が可能となることで、イスラエルからインドやタイ、極東への空路アクセスは大幅に改善されることとなる。イスラエル側はこの措置を両国関係正常化への第一歩と捉えつつあるが、サウジアラビア側はパレスチナ問題の解決が正常化への前提とする従来の姿勢を崩していない。今後水面下でのさまざまな提携や協力が進むとしても、それがイスラエルとサウジアラビアとの間の国交樹立といった公的な段階に向かうまでにはなお曲折が予想される。

バイデン大統領の今次中東歴訪の最大の目的は、サウジアラビアをはじめとする湾岸アラブ産油諸国の石油増産を促すところにあったが、その成果は必ずしも明らかではない。バイデン来訪に合わせてサウジアラビアで開催されたGCC(湾岸協力会議)にエジプト、ヨルダン、イラクを加えた拡大会議では、バイデン大統領は米国の中東への関与姿勢は不変であり、ロシア、中国、イランに付け入る隙を与えることはないと断言して、アフガニスタンからの米軍撤退で動揺するこれらアラブ諸国の信頼回復に努めた。しかしイスラエルが期待していたような、イランを共通の敵とする地域横断的な早期警戒ネットワークの構築や防空識別圏の設定といった具体的な方策の議論にまで及ぶことはなかった。

このように、イスラエルにとってバイデン米大統領の今次中東歴訪は、就任後初めてイスラエルに現実に「来たこと」、混乱する政局の中にあっても同国要人と実際に「会ったこと」が最大の成果であり、ウクライナ問題やイラン問題などに関する立場の違いが関係悪化につながることのないよう、予防的な了解を取り交わしたという点で一応の評価はできよう。しかしその真価が問われるのは、双方ともに11月に控えている選挙(イスラエル総選挙と米国中間選挙)においてであることは言をまたない。

(2022年7月18日脱稿)