コラム/研究レポート

東北アジア歴史財団編『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』を批判する

2021-06-08
下條正男(島根県立大学・東海大学客員教授)
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韓国の「東北アジア歴史財団」は、この4月26日、『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』をその専用サイトに掲載した。韓国の政策提言機関である「東北アジア歴史財団」としては、517冊目となる専門図書の刊行であった。

韓国の「東北アジア歴史財団」は、2005年4月に発足した「東北アジアの平和のための正しい歴史定立企画団」を前身として、翌年9月、竹島問題を中心として慰安婦問題、歴史教科書問題、東海問題(日本海呼称問題)、靖国問題、白頭山問題、高句麗史問題等の日韓、日中の歴史問題に持続的に対応するために組織された研究機関である。そのトップは閣僚級で、歴代の理事長は歴史研究者が就いてきた。

近年、日韓の争点となっている徴用工訴訟問題と慰安婦問題も、この「東北アジア歴史財団」が中心となり、政策提言を行っている。そこで研究に従事する専門の研究員は60名ほど、事務方は40名ほどで、事務方のトップは、大使経験を持つ人材が選ばれてきた。極めて実戦的で、政治的な活動をする研究機関である。

その「東北アジア歴史財団」が刊行した『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』は、1992年、第6回の国連地名標準化会議で韓国政府が日本海の単独表記を問題とした、日本海の呼称問題に関連した著書である。

その著書のタイトルが『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』として、東海と独島を併記しているのは、日本海呼称問題と竹島問題が密接に関係しているからである。

1954年以降、日本領の竹島(韓国名、独島)の不法占拠を続ける韓国側には、日本海の中に独島(竹島)があれば、それは日本の領海内にあるようで不適切だとする論理があった。韓国側では、竹島の占拠を正当化するためにも、日本海の表記は韓国側の呼称である東海に書き換えるべきだとしたのである。だが東海の単独表記が難しいと判断すると、次善の策として東海併記を主張して、今日に至っている。

だがその東海併記も、2020年11月の国際水路機関の総会を経て、従来どおり、「日本海」の単独表記で決着がついたことで霧散してしまった。日本政府はこれまで一貫して「日本海は世界が認めた唯一の呼称」と主張してきたが、今回の決定で、国際社会は改めて日本海の単独表記を認めたのである。

その日本政府の主張を補強してきたものに、本研究所が作成したリーフレット「日本海は世界が認めた唯一の呼称」がある。そこでは韓国側が、2000年前から日本海を東海と呼称してきたとする主張を批判的に捉え、韓国側が主張する東海は、歴史的に朝鮮半島の東海岸の沿海部の呼称であった事実を明らかにした。またその東海が、現行の日本海の海域にまで拡大したのは、1946年以降であった。韓国側が歴史的根拠としてきた「東海」は、いずれも古地図や文献を曲解または恣意的に解釈したものであった。

今回、東北アジア歴史財団が公開した『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』でも、同様に恣意的な解釈がなされていた。同書では、ダンビルの『朝鮮王国図』と金大建神父の『朝鮮全図』を根拠に、西洋の古地図では独島(竹島)を韓国領だとし、日本海を東海としていたと主張しているが、その事実はなかったからである。

ダンビルの『朝鮮王国図』には独島(竹島)が描かれておらず、金大建神父の『朝鮮全図』の東海は、朝鮮半島の沿海部分の呼称で、日本海ではなかった。それもラテン語で「ORIENTALEVELPINHAC」等と表記されていると、それを東海(日本海)と読み換えていただけであった。

そこで本稿では、『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』所収のダンビルの『朝鮮王国図』と金大建神父の『朝鮮全図』について、その解説の誤りを糺すことにした。前者では独島を韓国領とした事実はなく、後者では日本海を東海とはしていないからである。 

①ダンビル『朝鮮王国図』     ②金大建神父『朝鮮全図』

『朝鮮全図』の于山島(Ousan)

金大建神父の『朝鮮全図』は、近年(2020年)、「東北アジア歴史財団」のキム・ジュンクン氏によって発見されたものだという。『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、金大建神父の『朝鮮全図』について、次のような説明がなされている。

この地図は金大建神父(アンドレア・キム・デゴン、1821~1846)が1845年に作成したもので、原本と写本2枚がフランス国立図書館に所蔵されている。パリ外邦伝教会所属であった金大建神父は、フランスの神父達の朝鮮入国および朝鮮での布教活動を助けるため、すべての地名をローマ字表記で作成した。表記された地名の数は総て400余で、郡県が260余、島が102などである。太い線で表示しているのは海岸線と二つの境界線で(中略)、クロード・シャルル・ダレー(1829~1878)神父が作成した『韓国教会史』を見ると、金大建神父が漢城府の書庫の地図を筆写して、作成したとする。朝鮮半島の海岸線の形態及び朝鮮半島の北側の境界等をみると18世紀以後、朝鮮で広く使われた鄭尚驥(1678~1752)の『東国地図』系統の地図中の一点を模写したものと見られる。

この地図は地名が国語の発音をそのまま写しているという点で、極めて重要である。即ち欝陵島は「Oulangto」、独島である于山島は「Ousan」と表記している。それに当時、中国と日本の情報を基に東北アジア地図を描いていた西洋の世界に、我々が描いた地図が紹介され、西洋世界の地理認識の変化に影響を与えていた点では大きな意義がある。

この記述で注目すべき部分は、金大建神父が底本とした地図が鄭尚驥の『東国地図』系統の地図であった点。それに『朝鮮全図』に描かれている于山島(Ousan)を独島とした二点である。

 

③金大建『朝鮮全図』部分。欝陵島右に于山島 ④鄭尚驥『東国地図』。欝陵島右に于山島

この解説では、「独島である于山島は「Ousan」と表記している」とするが、朝鮮時代前期の『世宗実録地理志』(1454年)や『高麗史』「地理志」(1453年)、『新増東国輿地勝覧』(1530年)等の地志では、于山島に対比されていたのは欝陵島で、独島ではなかった。

中央集権国家の朝鮮では、建国すると間もなく、国家事業として地誌の編纂をはじめた。だが于山島については、長くその所在を明確にすることができなかった。その痕跡は、『高麗史』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の分註に残されている。前者では「一云、于山武陵本二島」とし、後者では「一説、于山欝陵本一島」としているのがそれだ。

『高麗史』「地理志」の「一云、于山武陵本二島」は、「于山島と武陵島(欝陵島)は二島別々の島である」の意で、『新増東国輿地勝覧』の「一説、于山欝陵本一島」は、「一説として、于山島と欝陵島は同島異名である」と読める。朝鮮時代の前期、于山島は欝陵島と対比されていたのである。

それを『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、当然のように、鄭尚驥の『東国地図』系統の地図に描かれた于山島を独島としていた。この解説者は、何を根拠に于山島を独島としたのだろうか。

それは歴史的事実として、『新増東国輿地勝覧』の系統に連なる『輿地図書』(1756年頃成立)や『大東地志』(1863年頃成立)等では、欝陵島だけが記載されており、于山島が消されているからだ。これは所在が明確でなかった于山島が、何故、鄭尚驥の『東国地図』系統の地図には描かれているのか。それ故、鄭尚驥の『東国地図』系統の地図に描かれている于山島については、実際にどこの島だったのか、論証しておかねばならなかったということである。

だが『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、その基本的な作業がなされていない。それは「于山島は独島である」を前提として、文献批判もせずに鄭尚驥の『東国地図』系統の地図を解釈していたからである。これは歴史研究として、致命的であった。

『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、朝鮮時代の文献の中に、「于山島は独島である」とした記述があると、それに無批判に従っていたからだ。その「于山島は独島である」とした文献は、1770年に編纂された『東国文献備考』(「輿地志」)である。その分註では、「于山は倭の所謂松島(現在の竹島)である」としているので、それを根拠としたのである。

だが既に明らかにされているように、この分註は、『東国文献備考』(「輿地志」)が編纂される過程で、『新増東国輿地勝覧』から引用された「一説、于山欝陵本一島」が、「于山は倭の所謂松島である」と改竄されていたのである。従ってこの分註には、「于山島は独島である」とする証拠能力はなかったのである。

それを金大建神父の『朝鮮全図』に描かれた于山島(Ousan)を独島としたのは、鄭尚驥の『東国大地図』系統の地図に対する文献批判を怠って、改竄されていた分註(「于山島は独島である」)に依拠して、鄭尚驥の『東国大地図』系統の地図を読図したからである。

これは金大建神父の『朝鮮全図』の于山島(Ousan)を独島とする前に、何故、その底本となった鄭尚驥の『東国地図』系統の地図には于山島が描かれていたのか。その事実を明らかにする必要があったのである。

何故なら、鄭尚驥の『東国地図』系統の地図に于山島が描かれることになったのは、1711年に欝陵島討捜使の朴錫昌が欝陵島を踏査して『欝陵島図形』を作成し、その中で欝陵島の東約2㌔にある竹嶼に「海長竹田/所謂于山島」と表記したことから始まるからだ。

 

⑤朴錫昌の『欝陵島図形』   ⑥『欝陵島図形』の「海長竹田/所謂于山島」部分

鄭尚驥は、朝鮮半島全体の地図を作成する際に、その朴錫昌の『欝陵島図形』に従って、欝陵島の東側に于山島を描いたのである。確かに鄭尚驥の『東国地図』系統の地図には于山島が描かれているが、それは独島(竹島)ではなかった。その于山島は朴錫昌の『欝陵島図形』に由来する「海長竹田/所謂于山島」で、そこには女竹(海長竹)が叢生しているからだ。現に岩礁に過ぎない独島に、女竹など生えていない。この于山島が独島(竹島)でないことは、自明である。

朝鮮時代の古地図には、『新増東国輿地勝覧』に由来する地図と鄭尚驥の『東国地図』系統に属す二つの流れがあった。従ってそこに描かれた于山島についても、別々の于山島として解釈する必要がある。前者の于山島は、欝陵島に対比された于山島で、後者は欝陵島の東約2㌔に位置する竹嶼である。いずれも独島とは関係のない島々であった。

それをキム・ジュンクン氏は、鄭尚驥の『東国地図』系統の地図を底本とした金大建神父の『朝鮮全図』の于山島を、独島としてしまったのである。これは鄭尚驥の『東国地図』系統の地図が、欝陵島捜討使の朴錫昌の『欝陵島図形』に由来し、そこに描かれた于山島が竹嶼であった事実を無視して、『朝鮮全図』の于山島(Ousan)を独島(竹島)と解釈していたのである。その恣意的な解釈が、結果的に無作為による牽強付会となったのである。

従って、金大建神父の『朝鮮全図』を模写したフランス国立図書館蔵の『ラテン語本朝鮮全図』(1860年)と米海軍将校J.R.Phelanの『朝鮮全図』に描かれた于山島も、独島ではなく、欝陵島の東約2㌔の竹嶼としなければならなかった。この事実は、金大建神父の『朝鮮全図』には独島が描かれていなかった、ということなのである。

『朝鮮全図』の「MARE ORIENTALE」(東海)

さらにキム・ジュンクン氏は、フランス国立図書館所蔵の『ラテン語本朝鮮全図』及び米国の海軍将校J.R.Phelanが作成した『朝鮮全図』を根拠として、西洋の古地図でも日本海を東海と表記していた証拠とした。

       

⑦『ラテン語本朝鮮全図』    ⑧J.R.Phelan『朝鮮全図』

それは、この二つの地図がすべて朝鮮の金大建神父(1821~1846)の『朝鮮全図』 を模写したもので、そこには「MARE ORIENTALE」(東海)と表記されているからであろう。

だが『ラテン語本朝鮮全図』とJ.R.Phelanが作図した『朝鮮全図』には、朝鮮半島の西側にも「MARE OCCIDENTALE」(西海)とした表記がなされている。これは金大建神父の『朝鮮全図』が底本とした鄭尚驥の『東国地図』系統の地図と、同じである。鄭尚驥の『東国地図』系統の地図では、朝鮮半島の東側には「東海」と表記し、西側には「西海」としていたからだ。

⑨鄭尚驥『東国地図』系統の地図(「我国総図」)右「東海」、左「西海」、下「南海」

この「東海」と「西海」は、拙稿(「日本海は世界が認めた唯一の呼称」)でも明らかにしたように、朝鮮半島の沿海を表記したもので、その外側は大海と認識していた

従って、金大建神父の『朝鮮全図』 を模写した『ラテン語本朝鮮全図』とJ.R.Phelanが作図した『朝鮮全図』に「MARE ORIENTALE」とあるからといって、それを日本海と解釈することはできないのである。『ラテン語本朝鮮全図』とJ.R.Phelanが制作した『朝鮮全図』では、朝鮮半島の西側にも「MARE OCCIDENTALE」(西海)と表記しているからだ。

この「MARE OCCIDENTALE」は、黄海の一部である。『朝鮮全図』の「MARE ORIENTALE」(東海)を根拠に、日本海を東海に書き換えようとするのは、「MARE OCCIDENTALE」(西海)を根拠として、黄海を西海に書き換えるようとするのと同じである。黄海の一部(朝鮮半島の西海岸の沿海部分)の呼称であった西海を根拠に、黄海を西海と書き換えることができないのと同様、「MARE ORIENTALE」(東海)の表記に依拠して、日本海を東海に書き換えることはできないのである。

それを象徴的に示しているのが、明代の『海防纂要』(「遼東連朝鮮図」)である。そこでは朝鮮半島の東側に「朝鮮東海」と表記し、西側は「朝鮮西海」としているからだ。これは朝鮮の東海、朝鮮の西海という意味で、朝鮮半島の沿海部分を指している。『ラテン語本朝鮮全図』とJ.R.Phelanが作成した『朝鮮全図』で、「MARE ORIENTALE」(東海)と「MARE OCCIDENTALE」(西海)としているのも同様で、朝鮮半島の沿海を表示していたのである。事実、金大建神父の『朝鮮全図』が底本とした鄭尚驥の『東国地図』系統の地図でも、「東海」と「西海」は、朝鮮半島の沿海の呼称を表記したものであった。

ダンビルの『朝鮮王国図』について

ダンビルの『朝鮮王国図』(1745年)には、朝鮮半島の東側、江原道の平海と寧海の沿海部分に「Fan-ling-tao」、「Tchian‐chan-tao」と表記された島が二つ、描かれている。キム・ジュンクン氏は、その「Tchian‐chan-tao」と記されているのが于山島で、現在の独島なのだという。それ故、ダンビルの『朝鮮王国図』では、独島を韓国領としていたとするのがキム・ジュンクン氏の論理である。

だがここで、于山島が「Tchian‐chan-tao」と中国語の発音で表記されているのは、ダンビルの『朝鮮王国図』には、他に底本となるものがあったことを示している。それについてキム・ジュンクン氏も、ダンビルの『朝鮮王国図』は、清朝で編纂された『皇輿全覧図』を底本に作図されていたとしている。それも于山島を「Tchian‐chan-tao」と表記しているのは、『皇輿全覧図』では于山島を千山島と誤記していたからだという。この事実は、『皇輿全覧図』にもまた、于山島を千山島と誤記した底本が存在していたことを意味するのである。

  

⑩ダンビル『朝鮮王国図』と「Tchian‐chan-tao」部分 ⑪『皇輿全覧図』の千山島

ではその『皇輿全覧図』が参考にした「朝鮮地図」とは、どのような地図だったのか。結論から言うと、それは『新増東国輿地勝覧』系統の地図である。

⑫『新増東国輿地勝覧』「江原道図」の于山島と欝陵島

ダンビルが底本とした清の『皇輿全覧図』は、康煕帝の勅命でフランス人のイエズス会士レジス等が1708年に測量を始めて、1717年に完成していた。

だが朝鮮半島の部分は、測量をせずに、既存の朝鮮地図を用いた。その時点で、朝鮮半島の地図として存在したのは、官撰の『新増東国輿地勝覧』系統の地図である。そして事実、『新増東国輿地勝覧』系統の流布本の中には、于山島を子山島、干山島、千山島等と表記したものが実在している。

鄭尚驥が『東国地図』を作成したのはその『皇輿全覧図』の完成後で、鄭尚驥が描いた于山島は、欝陵島の東約2㌔の竹嶼であった。

この事実は重要である。『皇輿全覧図』が底本とした『新増東国輿地勝覧』系統の地図に描かれた于山島は、欝陵島に対比されていた于山島だったからだ。

ダンビルは、その『新増東国輿地勝覧』系統の地図を基にした『皇輿全覧図』を底本に、『朝鮮王国図』を作図していたのである。これは「Tchian‐chan-tao」と表記された于山島は、『新増東国輿地勝覧』系統の地図に由来する于山島で、独島ではなかったということなのである。

『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、そのダンビルの『朝鮮王国図』が後世の西洋の古地図に影響を与え、西洋では独島を「Tchian‐chan-tao」と表記したとしている。

だがダンビルの『朝鮮王国図』で、「Tchian‐chan-tao」と表記された于山島は、『皇輿全覧図』の中の千山島(于山島)であった。さらにその『皇輿全覧図』は、朝鮮時代前期に編纂された『新増東国輿地勝覧』を底本として、作図されていたのである。

それも『新増東国輿地勝覧』系統の于山島は、鄭尚驥の『東国地図』系統の地図で欝陵島の東約2㌔の竹嶼に比定されると、次第に地誌から姿を消していった。

ダンビルの『朝鮮王国図』に描かれた朝鮮半島が、『新増東国輿地勝覧』系統の地図を底本とした『皇輿全覧図』の朝鮮半島であった以上、そこに描かれた「Tchian‐chan-tao」は欝陵島に対比された于山島で、独島(竹島)ではなかったのである。

おわりに

さて以上、縷々述べてきたが、東北アジア歴史財団がその専用のネットに公開した『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、金大建神父の『朝鮮全図』に「MARE ORIENTALE」(東海)とした表記があるとそれを日本海と解釈して、西洋に伝わる古地図では、日本海を東海と表記していた証拠とした。だがその事実はなかった。

ダンビルの『朝鮮王国図』(1745年)に「Fan-ling-tao」、「Tchian‐chan-tao」と表記された島が描かれていると、キム・ジュンクン氏は、文献批判もせずに、その「Tchian‐chan-tao」は于山島で、現在の独島だとした。

だが「Tchian‐chan-tao」と表記されていた千山島は、独島ではなかった。ダンビルが『朝鮮王国図』を作図した際、その底本とした『新増東国輿地勝覧』系統の朝鮮地図に描かれていた于山島は、欝陵島に対比された于山島だったからである。

『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、150枚ほどの西洋の古地図を収載して、金大建神父の『朝鮮全図』は、「西洋の世界に、我々が描いた地図が紹介され、西洋世界の地理認識の変化に影響を与えていた点では大きな意義がある」とした。

だがそれは羊頭狗肉である。朝鮮半島の東海は、歴史的には沿海部の呼称であった。その東海が日本海の海域にまで拡大されたのは、1946年頃以降である。西洋の古地図と韓国側が主張する東海は、何ら関係がなかったのである。金大建神父の『朝鮮全図』に「MARE ORIENTALE」と表記された東海も、その底本となった鄭尚驥の『東国地図』系統の地図では、沿海部分を示していた。金大建神父の『朝鮮全図』に「MARE ORIENTALE」と表記された東海に依拠して、日本海を東海に書き換えることはできないのである。

『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、金大建神父の『朝鮮全図』が「西洋世界の地理認識の変化に影響を与えていた」とし、ダンビルの『朝鮮王国図』の「Tchian‐chan-tao」を独島として、西洋の古地図では独島を韓国領としていた証拠とするが、それは古地図を恣意的に解釈しただけのことで、歴史的事実ではなかったのである。

従って、「東北アジア歴史財団」は『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』を刊行したことで、逆に、「日本海は世界が認めた唯一の呼称」とした日本側の主張の正しさを論証したのである。国際水路機関では、日本海の単独表記が認められた。韓国の文化教育部傘下の「東北アジア歴史財団」と外交部傘下の「東海研究会」では、その事実を厳粛に受け止め、歴史を捏造し、文献を恣意的に解釈して日本海を東海に書き換えようとする愚は、繰り返すべきではないのである。