コラム

米国の対中国政策 : 米国防総省「中国の軍事力に関する年次報告」とその政策インプリケーション

2006-09-26
湯澤 武(研究員)
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・年次報告書とその対中政策への影響
今年5月に米国防総省から「中国の軍事力に関する年次報告」が発表された。この報告書は、国防総省が中国の軍事力拡大の現状について分析した結果をまとめたものであり、2002年から毎年議会に提出されている。同報告書には中国の軍拡に対する国防総省の強い警戒感が表れている。本年度版報告書は、昨年度版と同様に不透明な戦略的意図や軍事予算等に対して懸念を表明しているが、本年度の報告書の中で特に注目されている事は、中国軍のパワープロジェクション能力(遠方投入能力)の拡充である。同報告書は、中国の最近の軍事調達状況を分析した上で、中国の軍拡の目的は単に台湾海峡有事への備えだけでなく、その他地域における資源や領土をめぐる紛争にも対応できる能力を構築することであるとしている。中国の軍事調達の主な例として同報告書は、①移動式短距離弾道ミサイルと新型長距離弾道ミサイル(潜水艦発射型を含む)の配備または開発中、②空軍の南シナ海への展開を可能とする空中警戒管制機と空中給油機の開発計画、③新型対艦巡航ミサイルと防空システムを備えたロシア製誘導ミサイル駆逐艦の配備、④宋級ディーゼル潜水艦の一貫生産体制の確立とロシア製キロ級ディーゼル潜水艦の配備及び次世代攻撃型原潜の就役、⑤国産の空母と空母搭載可能な戦闘機の開発計画、を挙げている。

中国のパワープロジェクション能力増大に対する国防総省の懸念は、本年度版の報告書が、昨年度版までの報告書が触れなかった“列島線”という中国の海洋軍事戦略の概念に言及したことにも表れている。すなわち、中国は、東シナ海から台湾を経て南シナ海にかかる“第1列島線”だけでなく、伊豆諸島からグアムを経てパプアニューギニアまで至る“第2列島線”まで展開できる軍事力を構築することを視野に入れていると同報告書は論じている。このような中国の軍事動向を概観した上で、同報告書は、中国の軍事能力は、地域の軍事バランスを既に崩し始めているだけでなく、長期的には米軍を含めた地域に展開する諸国軍に対して“確かな脅威”になる可能性があるとし、中国の軍拡が透明性を欠いた状態では、米国だけでなく他域内諸国もそのような可能性に対してヘッジ(最悪の事態に備えて防護策を施す)していくことになるだろうと警告を発している。

中国が実際に第2列島線まで制海権を拡大することを目指しているのかどうかは専門家の間で意見が分かれるところであるが、国防総省から見れば、潜水艦や対艦巡航ミサイルといった米第7艦隊の行動を牽制しうる兵器を急速に配備する中国の動きは、これまでこの海域で圧倒的な軍事的優位を保持し続けてきた米国への深刻な挑戦と映る。今年6月に開かれた米国下院軍事委員会の同報告書に関する公聴会で、ジョン・アレン国防次官補代理が、「中国の軍拡の目的はグローバルな次元で米国に挑戦することである」と発言したことにも表れるように、国防総省は将来における中国との軍事的衝突をより現実味のあるシナリオとして考えるようになったといえるであろう。

中国の軍事動向に対して強い警戒感と不信感を示す年次報告書は、国防総省内で強まる「中国脅威論」の表れであるといえるが、国防を司る省庁が周辺国の軍拡を懸念するのは当然のことであり、このような観点からすれば、同報告書が中国脅威論を強調したとしても驚くべきことではない。また、国防総省が軍事予算を確保するために議会向けに中国の軍事的脅威を誇張したという意見も一部にある。しかし、もしこの報告書に表れている対中脅威認識が、単に国防総省だけでなく、広くブッシュ政権内で共有されているものであるならば、この報告書が示唆するものは大きい。なぜならば、政策決定レベルにおけるこのような共有認識は、米国の対中政策を強硬的な方向に導いていく可能性が高いからである。

今回の中国の軍事力に関する年次報告書は、その発表時期が、現在、米国の対中政策の基本方針となっているステークホルダー論(中国を国際社会の中に取り込み、責任ある“利害共有者”となるよう促す)の提唱者であるゼーリック国務副長官の辞任表明とほぼ同時期であったこともあり、中国に対する米国の認識と政策の変化の象徴-すなわち対中政策の焦点が、中国を“建設的な協力者”とみなすステークホルダー・アプローチから、“軍事的な挑戦者”とみなす封じ込め政策に転化し始めた-であると、国内外の一部メディアによって報道された。確かに米国は、日本やオーストラリアのような同盟国だけでなく中国のライバルであるインドとの戦略関係を強化し、また、グアムにおける航空戦力の増強や空母や潜水艦などの海軍力を太平洋地域に重点的に配置し始めるなど中国の軍拡に対してヘッジ政策を展開し始めた。 

しかし、これらをもってしてブッシュ政権の対中政策の方向性が変わり始めたと結論付けることはできないであろう。よく知られているように、台頭する中国への対処方法については、政権内に特に国務省と国防総省の間に意見の相違がある。中国との戦略的協力関係の構築を対中政策の最優先順位に置く国務省も、中国の軍拡に伴うリスクをヘッジしていかなければならないという点において国防総省と意見を一致させているが、中国を軍事的脅威とみなしヘッジ政策を前面に押し出そうとする国防総省の姿勢に反発している。(ヘッジはあくまでも最悪の事態に備えての保険であり、対中政策の主軸にはなりえないというのが国務省のスタンスである)上に述べたように、ゼーリックの辞任によってステークホルダー・アプローチが頓挫し、強硬な対中封じ込め論が前面に出てくるのではないかという意見もある。しかし、ステークホルダー論は今回の年次報告書やQDR(4年ごとの国防計画見直し)といった国防総省発行の文書にも明記されているだけでなく、ブッシュ大統領やラムズフェルド国防長官も繰り返し言及しており、対中政策の理念として政権内で一定の支持を得ていると考えられる。これらのことを鑑みると、国防総省の年次報告書に表れている対中脅威認識は、ブッシュ政権全体の対中観を代表するものであるとは考えられない。従って、同報告書が今後の米国の対中政策の方向性に与えうる影響は、一部メディアで報じられるよりは限定的なものになるだろう。

・今後の米国の対中政策
今後、米国は、これまでと同様、中国の軍拡に対してヘッジしつつ、中国を責任ある利益共有者として導くため、安全保障を含めた様々な分野において中国との協力関係を模索していくであろう。しかし、将来において、米国の対中戦略の主軸が、強硬派が唱える封じ込め路線にシフトする可能性も無きにしも非ずである。このような状況が発生する要因の一つとして、安全保障ジレンマの危険性が挙げられる。安全保障ジレンマとは、国家の安全保障政策の矛盾を説明する理論である。この理論によれば、A国とB国との間に相互信頼関係が構築されていない場合、A国の安全保障強化がたとえ純然たる自衛目的であってもB国にとっては脅威に映るため対抗措置を誘発するという。更にその対抗措置が逆に作用し、A国の自衛行動をエスカレートさせることにより、両国間に動・反動(action-reaction)と相互不信増幅の悪循環が始まり、最終的には軍拡競争などの極度の緊張状態が両国間に出現するという。

近年の米中の安全保障関係を考察すると、両国間にこの動・反動の悪循環が生起し始めたように思える。中国が軍事近代化を推し進める理由には、台湾海峡有事への米軍介入の可能性や米日が開発しているミサイル防衛システムへの備えが重要な要因の一つとしてある。その中国の軍拡の対抗策として、米国は、上に述べたように太平洋における軍事力を強化している。米中双方の軍事行動は自衛目的である。しかしながら、両国の行動は、結果として相互の不信感を高め、互いに対抗策を誘発し合う結果となっている。

このような米中間の安全保障ジレンマ的状況を打破するには、言うまでもなく両国間の相互不信を改善することが大前提である。対中強硬派が多い国防総省も安全保障ジレンマの危険性を憂慮しているようで(最近になって、国防総省の制服組には中国との信頼醸成措置の確立を重視する声が増えているという)、2001年4月に南シナ海で起きた軍用機接触事故以来中断されていた中国との軍事交流を、昨年10月のラムズフェルド国防長官の訪中を皮切りに積極的に推進し始めた。今年6月に米軍がグアム島近辺で行った軍事演習「バリアント・シールド」には中国軍幹部がオブザーバーとして招待され、また、今年9月中旬には米中軍合同で捜索救難訓練を実施するなど、両国の軍事交流は徐々に進展している。このような米国の政策に対する中国の反応(不透明な軍拡を推し進めていくのか、それとも軍事面での透明性を高めつつ米国との安全保障協力を進めていくのか)がどのようなものになっていくのかは分からない。しかし、もし中国が不透明な軍拡を更に加速させ、米政権の対中脅威認識が極度に悪化することになれば、それは米国の対中戦略の基軸が強硬路線にシフトしていくことにつながっていく可能性もあるだろう。