コラム

トルコのEU加盟交渉 ~交渉開始から1年、経過と展望~

2006-11-21
小窪千早(研究員)
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 トルコのEU加盟交渉が2005年10月3日に始まり、1年が経過したが、交渉の進展は決して順調ではない。2006年11月8日、欧州委員会はトルコの加盟交渉の進展についての報告書を提出し、その中でトルコは様々な分野で改革の進展が見られると評価しつつも、政治改革の面では加盟に向けた改革はこの1年でむしろペースが落ちている、とやや厳しい評価を下している。とりわけ今回はキプロス問題が焦点となり、今年12月の欧州理事会までに改善策が取られなければ交渉の一時凍結などの制裁をすべきという厳しい勧告を出した。トルコの加盟交渉はこの先どうなるのであろうか。

■ EU加盟へのハードル:コペンハーゲン基準とトルコの特殊事情

 トルコとEU(その前身たるEEC, EC)との関わりは古く、トルコによる最初の加盟申請は1963年に遡る。その後トルコは1999年12月のヘルシンキ欧州理事会でようやく加盟候補国としての地位を得て、2005年10月3日、最初の加盟申請から40年余りを経て加盟交渉が開始された。それでもなお「加盟交渉の開始は必ずしも将来の加盟を前提としたものではない」との但し書きが付くなど、トルコのEU加盟は従来の加盟交渉とは多くの点で様相を異にする。

 EUは「コペンハーゲン基準」という加盟の基準を設けているが、EUに加盟するためには、国内の社会制度や法制度をEUの基準に合わせる必要があり、加盟候補国は加盟の実現までに国内の改革に多大な努力を要する。「コペンハーゲン基準」とは、トルコに限らず全ての加盟候補国を対象にEU加盟のために必要な基準をまとめたものであり、法の支配や民主主義など、政治体制の基本原則について定めた政治的基準、市場経済や通商に関する規定など、単一市場の形成に必要な経済活動のルールについて定めた経済的基準、そして法的基準の3つの部分から構成される。法的基準とは、既に80,000ページにも及ぶといわれるEUの諸法規(アキ・コミュノテール)と国内法との整合性をつける作業であり、国内法の技術的な改正作業だけでも相当の時間と労力を要する。このように、EUへの加盟交渉とは、EUと加盟候補国との対等な交渉というようなものではなく、EUが設定する基準に合わせるべく加盟候補国が国内の諸制度を改革し、その進展の度合いを欧州委員会が査定し、それに基づいて欧州理事会で加盟の是非を判定するというものである。

 こうした非対称的な加盟交渉のあり方はトルコに限ったことではないが、トルコの場合はトルコ特有の事情が加盟交渉の進展に大きな影を投げかけている。その最大の問題のひとつであり、今回大きく取り上げられているのがキプロス問題である。トルコ政府は、ギリシア系住民を主体とし国際的に承認されている「キプロス共和国」ではなく、トルコ系住民による「北キプロス・トルコ共和国」をキプロス唯一の合法政府とみなし、キプロス共和国を承認していない。キプロス共和国が2004年にEU加盟を果たした以上、キプロス共和国の承認はトルコにとってEU加盟の前提となる。トルコもEU加盟のためには最終的にキプロス共和国を承認しなければならないことは承知しているが、この問題を加盟交渉のどのタイミングで取り扱うべきかという問題に対して、欧州側とトルコ側の間には意見の相違が存在する。キプロス問題はトルコにとっては基本的に国連に委ねた問題であり、EU加盟が実現する時点で解決していればいいとトルコ側が考えているのに対し、欧州側は、例えばフランスがキプロス承認を加盟交渉開始の条件に盛り込むことを主張したように、加盟交渉のなるべく早い段階での解決を望んでいる。欧州委員会も今回の報告書を提出した際に、トルコがキプロス船舶のトルコ国内への入港禁止を解除していないことについて特に非難し、今年12月の欧州理事会までに改善策が取られなければ交渉の一時凍結などの制裁を欧州理事会に勧告するという厳しい立場を示した。

■ 欧州と中東の結節点となるか

 トルコの加盟交渉の進展が順調でない背景には、欧州諸国におけるトルコ加盟に対する消極的な姿勢が挙げられる。国土の大半がアジアに位置し、政教分離の原則があるにせよ国民の大半がムスリムであり、早晩ドイツを抜いて他のどのEU加盟国よりも多くの人口を抱えることになるトルコのEU加盟は、他の国の新規加盟とは異なる要素を多く含んでいる。とりわけ西欧諸国の多くはトルコの加盟に対し反対ないし否定的な世論が強い。その背景には、移民の増加やグローバリゼーションの進展により雇用や労働環境に不安を抱えている西欧諸国の労働市場の現状があり、国内のムスリム系住民の社会統合の課題に改めて直面させられている漠然とした社会的な不安感が存在する。

 トルコの加盟はいずれにせよ先の話であるし、加盟が移民の増加を必ずしも直接意味するわけではないのだが、こうした世論を反映してか、主な西欧諸国の政府の姿勢も消極的である。ドイツのメルケル首相率いる与党CDUも、トルコにはEUの中で「特権的パートナーシップ」という地位を与えて正式な加盟ではない別の形を付与しようとする提案をしており、フランスのサルコジ内相もトルコを含めEUのこれ以上の拡大には否定的な見解を述べている。またフランスは憲法を改正し、今後EUの拡大に際しては国民にその是非を問う国民投票を実施するとの条項を加えた。この国民投票を設ける措置は他のいくつかの加盟国でも導入されると見られており、その場合、トルコが将来コペンハーゲン基準を満たすにもかかわらずどこかの加盟国の国民投票の結果でEU加盟を拒否されるという事態も起こり得るということになり、もしそうなればEUの政治的信用に深刻な影響を及ぼすことになるであろう。
 一方のトルコでも、トルコにとってEUへの加盟は長年の国是であり、EUへの加盟自体は依然として国民の広範な支持を得ているものの、世論調査の結果では加盟支持の意見が若干低下している。その根底には、交渉の過程で次々と新しいハードルを突きつけられることや、そこにトルコの加盟を認めたくないという政治的な意図が見え隠れすることへの不信感がある。
 
 地理的にも欧州と中東との結節点に位置し、ムスリムの国でありつつも政教分離の市民社会の伝統を持つトルコという国の存在は、今後のEUにとって非常に重要な意味合いを持っている。さしあたり課題はまだ多いが、長い目で見れば、トルコがEUに入ることにより、EUは中東地域や中央アジア方面でより積極的な役割を担うことになるだろう。EUが将来もグローバルなアクターとして国際政治でも重要な役割を果たそうとするならば、トルコのEU加盟は地政学的にも政治的にも大きな可能性を提供することになる。
 加盟交渉の帰趨が見えてくるには早くともあと10年から15年は掛かる問題であるが、今後の展開が注視されよう。トルコのEU加盟という問題は、EUにとっては欧州そのものの定義に直接関わる問題でもあり、トルコにとってもムスリムによる政教分離の世俗国家というアタチュルク以来の国家モデルの確立に関わる問題である。EUにとってもトルコにとっても壮大な実験であると言えよう。