コラム

ASEAN共同体の行方:ASEAN憲章を巡る対立

2007-05-11
湯澤 武 (研究員)
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今年1月、フィリピンで第12回東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議が開催された。
今回の首脳会議で最も注目された成果は、当初の予定より5年前倒し2015年に「ASEAN共同体」(1)を創設することを謳った宣言と、共同体の法的枠組みとなる「ASEAN憲章」の指針を定めた宣言が採択されたことであった。ASEAN憲章の制定は2005年の首脳会議で合意され、その際、憲章案を提言するための加盟国の閣僚経験者からなる「賢人グループ」の設立が決定された。今回の首脳会議にはこの賢人グループの提言リポートが提出され、ASEAN首脳はこのリポートやその他の提言を基に今年11月の次回首脳会議までに憲章を起草することで合意した。賢人グループの提言は、従来のコンセンサスによる意志決定や内政不干渉原則の部分的な見直し、また加盟国が憲章規定やその他合意に違反した場合の措置に法的拘束性を持たせるなど、ASEANの伝統的な組織原則からの脱却を示唆した画期的な内容となっている。ASEANが共同体として政治的・経済的統合を成し遂げるためには、これまで加盟国が合意してきた共同体創設に向けての行動計画や憲章の実行性を確実にすることが不可欠であることを鑑みると、賢人グループの提言がASEAN憲章に忠実に反映されるかどうかは、共同体の成否を占う上で重要な鍵となる。しかしながら、その大胆さが故にASEAN内部ではこの提言を巡って早くも不協和音が生じている。

2005年のASEAN首脳会議において採択された「ASEAN憲章の制定に関するクアラルンプール宣言」によれば、ASEAN憲章とは、ASEANに法人格を付与し、その主な諸機関の機能や権限の範囲を定めるものである。また、憲章は、ASEANの規範、ルール、価値を成文化するとともに、これまで合意してきた宣言や条約(代表的なものとしてASEAN宣言、東南アジア友好条約、東南アジア非核兵器地帯条約、ASEANビジョン2020、第2 ASEAN協和宣言)で示された原則・目的を再確認するものであるとしている。クアラルンプール宣言では主に以下の原則・目的が示された。

-加盟国間の発展格差の是正
-社会をケアする共同体の形成と地域アイデンティティの醸成
-民主主義、人権、義務、透明性とグッドガバナンスの推進及び民主主義制度の強化
-平等、相互尊重、コンセンサスに基づいた意思決定
-域内国が、公正、民主的かつ調和的環境の中で平和裡に共存することの確保
-ASEANの競争力の強化、ASEANの経済統合の深化・拡大と世界経済との関係強化
-全ての国の独立、主権、平等、領土的一体性並びにナショナル・アイデンティティの相互尊重
-核やその他大量破壊兵器の放棄と軍拡競争の忌避
-加盟国間における武力の不行使と侵略の放棄、平和的手段による対立や紛争の解決
-国際法の順守、外部からの干渉と強制からの自由、内政不干渉原則の維持

賢人グループの提言リポートに記されたASEANの組織原則・目的は表現方法が多少異なるにせよ基本的に上記のものを踏襲しているが、いくつかの原則については見直しの必要性が提言されている。その中でも最も注目される提言は、「コンセンサスによる意思決定」「内政不干渉」といったASEANの二大原則の緩和である。上に見るように、これまでにASEANが合意してきた原則を再確認することを謳ったクアラルンプール宣言では、当然のように二大原則の重要性が強調されていた。しかし、賢人グループの提言はその重要性を認めながらも、ASEANの実行力と組織としての信頼性を向上させるにはこれら原則の見直しは必要であると主張している。例えば、安全保障や外交政策の分野ではコンセンサスによる意思決定を維持するとしているが、他の分野の問題についてはコンセンサスが得られない場合は多数決(3分の2か4分の3)による決定もあり得るとしている。また、提言は、国境を越える問題など緊密な域内協力が必要とされる分野において内政不干渉原則の緩和を提案するとともに、「制裁制度」を導入することによって不干渉原則からの脱皮を示唆している。具体的には、ASEAN事務局が、憲章規定やその他合意事項を加盟国が履行しているかどうかを監視し、もし重大な違反があった場合、違反国の権利や特権の一時停止、最悪の場合には除名処分が科されるというものである。制裁制度の導入は、憲章規定に対する加盟国のコミットメントの強化につながるだけでなく、それらに違反した加盟国にはたとえそれが国内問題に関わること(例えば人権侵害、民主化運動の弾圧など)であっても制裁が加えられるという点において、事実上内政不干渉原則の見直しにつながる。

ASEANはその成立以来、合意事項の非拘束化、組織の非制度化、内政不干渉、コンセンサスによる意思決定などを重視したいわゆる「ASEAN Way」とよばれる組織原則によって運営されてきた。組織の制度化・法制化を進め国家の主権をある程度制限することによって地域協力を発展させてきた欧州のアプローチとは対称的なこのインフォーマルなアプローチは、内外に様々な問題を抱えて互いに対立していたASEAN諸国間の連帯感を高め、地域の平和と安定に貢献してきた。しかしながら、その反面、ASEAN Wayの下では、地域の諸問題の解決に対して加盟国間の協調行動がなかなか実現されず、また首脳会議等における合意事項が実行されないといった問題が起きるなど、近年、ASEANの組織としての信頼性は著しく低下してきた。特に、内政不干渉を理由としてミャンマーの人権問題に積極的に対応してこなかったASEANの「建設的関与」政策には、欧米諸国から激しい非難が浴びせられてきた。賢人グループがASEAN Wayの見直しを提言したのには、中国とインドの政治的・経済的影響力が増大し地域協力の「推進力」としてのASEANの存在感が薄れる中で、そのようなASEANの欠点を是正し組織としての有効性と信頼性を高めることを意図したことが背景にある。近年においてASEAN Wayに対する批判は、域外国からだけでなくASEAN内部の知識人からも噴出していたが、上記のような提言がASEAN加盟国の閣僚経験者達から出てきたことは、これまでのASEANの歴史を考えると非常に画期的な出来事であるといえよう。

しかしながら、賢人グループの提言は、その画期さが故に加盟国間に意見の対立を生んでいる。当該提言は、シンガポール、フィリピン、インドネシアなどから一定の支持を受けているものの、ミャンマー、ラオス、ベトナムといったASEAN新加盟国からは強い反発を受けている。3月初旬にカンボジアで開催されたASEAN非公式外相会議において憲章に関する議論が行われたが、会議では内政干渉につながる恐れのある制裁制度案に対して、国内に民主化・人権問題を抱えるミャンマー、ラオス、ベトナムから激しい反発の声が上がった。反対の声は、ASEAN共同体構想を牽引してきたタイからも上がったという。タイは、フィリピンと共に90年代後半からASEAN内における不干渉原則の緩和を主張してきた。しかし、国内のイスラム問題におけるタイ政府の強硬策や昨年起きたクーデターに対する諸外国からの批判に嫌気が差したのか、タイは不干渉原則の見直しに後ろ向きになったようである。結局、外相会議は、憲章に制裁制度を盛り込まないことで合意した。また3月下旬にマニラで開催された「憲章起草に関するASEAN高級作業部会」の会議では、賢人グループの提言リポートの中で提案されている「人間の安全保障」への取り組みについても上記3カ国からクレームが出た。高級作業部会の会議は4月末までに4回開催されたが、タイの英字新聞『ネーション』によれば、既に第2回会議の時点で賢人グループの重要な提言のいくつかは憲章草案から削除されたという。

ASEAN共同体の行方
ASEAN共同体構想を現実のものとするためには、単に憲章を制定するだけでなく、ASEANの伝統的な組織原則を見直すことによって憲章に対する加盟国のコミットメントを確実にすることが極めて重要である。このような意味において、賢人グループの提言がASEAN憲章に忠実に反映されるかどうかは、共同体の成否に大きな影響を与えるといえる。しかしながら、上に見たように、そのような賢人グループのイニシアティブは、多くの加盟国の反対により早くも頓挫しようとしている。

これまでASEAN共同体構想は、多くの地域専門家によってその実現性が疑問視されてきた。その理由としては、主に加盟国間における政治体制の違いや経済格差といった地域の多様性が挙げられている。確かに、このような地域の特質は、共同体構想の進展を妨げるかもしれない。しかしながら、地域による差異はあれども欧州における統合のプロセスにも多様性という障害は(特に文化・経済面において)存在した。現在、EUでは政治・経済・安全保障の分野において統合が進んでいるが、これらはEU諸国が多様性と向き合いながら着実に努力を積み重ねることによって成し遂げられたものである。このような事実を考えると、ASEAN共同体を巡る最大の問題は地域的な特質などではなく、むしろ組織を法的・制度的に強化することによって統合を推進していこうというまとまった政治的意志がASEAN内に存在していないことであるといえる。ASEANは憲章の制定に本格的に着手し始めたことによって、共同体の実現に向けて重要な一歩を踏み出したように見える。しかし、憲章順守を担保する制度を構築することができなければ、憲章はこれまでASEANが合意してきた宣言や条約と同様に実行性が低いものになってしまうだろう。ASEAN共同体構想の動向に大きな影響を与えるASEAN憲章が、今後どのように制定されていくのか注視していく必要がある。

(脚注)
(1)ASEAN共同体設立を謳った 第2 ASEAN協和宣言によれば、ASEAN共同体とは政治・安全保障協力、経済協力及び社会・文化協力という3つの柱から構成されるものである。地域の永続的な平和、安定及び地域で共有された繁栄を確立するためには、密接に関連し相互に補完関係にあるこれら3分野の協力を推進し共同体を設立しなければならないとしている。