コラム

ミャンマー情勢を動かす三つの要素を分析する―周辺国の多角的取り組みは実現するか

2007-10-09
友田 錫(所長)
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ミャンマーの軍事政権、国家平和発展評議会(SPDC)は去る9月29日(2007年)、「最小限の実力行使で秩序を回復した」と反政府デモの制圧完了を宣言した。8月19日にはじまって僧侶を中核に一時10万人という異例の規模に膨れ上がった市民の抗議行動は、国軍の実戦部隊を動員しての徹底的な弾圧と取締りによって、たしかにほとんど影を潜めたように見える。だが、これをもってミャンマー情勢が完全に鎮静化したと見てよいのか。こんごの情勢を左右し得る三つの要素、①反軍政勢力、②国軍、③国際社会―の動向を分析して、起こりうる展開のいくつかの可能性を探ってみよう。

軍政への対抗勢力(1)―野党、学生グループ
軍政に対抗し得る勢力としては、大きく分けてアウンサン・スーチー(書記長)率いる野党、国民民主連盟(NLD)、また小規模ながら1988年の反政府デモの中核だった学生活動家の組織の流れを引く「88世代学生グループ」、それに仏教僧侶たちの三つがある。このうち、NLDは1989年いらいの軍政側による長期の弾圧でスーチーをはじめ有力な活動家たちの多くが拘束され、あるいは世代的に老化したため、組織としての活力は極度に衰えているという。「88世代学生グループ」も、指導幹部たちは88年デモを粉砕されて以降、長年獄中にあった。ようやく釈放されてこんどのデモの口火を切ったが、ふたたび逮捕され、組織的に抵抗する力はかなり弱まっている。

軍政への対抗勢力(2)―僧侶
市民に対してもっとも大きな影響力を持つ勢力は僧侶たちだ。個人の解脱を追求する上座部仏教にあっては、よほどの事情がなければ僧侶が政治にかかわることはない。だがその「よほど」の事態が、ミャンマーではイギリスの植民地時代からしばしば起きた。たとえば1918年、ウ・オッタマ師という高僧は「仏教協会総評議会」なる組織を動員してイギリス支配へのボイコット運動を展開、3年後に投獄された。別の高僧、ウ・ウィサラ師はこれまた植民地政府への抗議ハンストを166日間続け、ついに死亡した。植民地支配への最大の武力反乱といわれる1930年―31年の「サヤ・サンの乱」でも、僧侶が重要な役割を果たしたとされている。この鎮圧のために投入された英軍は1万人、ビルマ人の死亡者も1万人にのぼった。

最近では1988年の反政府デモにあっても、学生たちを支援して多くの僧侶が参加。軍政側の弾圧でデモ参加者に多数の死者が出たが、その中には僧侶もかなり含まれていたという。『アジア・タイムズ電子版』によると、これに抗議して1990年10月、中部の主要都市マンダレーの僧侶たちは軍政幹部とその家族から托鉢布施を受けることを拒否し、怒った軍政側はいくつかの寺院を襲撃、およそ300人の僧侶を拘束したとされている。こんどの反軍政デモでも、僧侶たちは托鉢の器、応量器を逆さにかかげ、軍政指導者らからの布施を拒否する意思表示をした。ちなみに上座部仏教では、托鉢への布施は信者が功徳を積む日常の最も重要な手段であり、僧侶からこの布施を拒否されるということは、仏教からの破門に匹敵する意味をもつ。

だが軍政に対して僧侶たちがどれだけ有力な抵抗を展開できるかについては、悲観的な見方が多い。まず、ミャンマーの仏教界は政治的影響力を発揮する強固な組織を持っていない。また軍政はひんぱんに寄進を行い、寺院を新築、改築する一方、仏教界を行政的にさまざまな面で管理しており、仏教界上層部のかなりの部分は軍政にとりこまれているという。こんど反軍政のデモに繰り出したのは若手の僧侶たちだった。民主化を目指す若い僧侶たちは「全ビルマ僧侶連盟」というグループを組織し、学生たちと「合同スト委員会」なるものを結成したとの情報がある。

これら若手僧侶を行動に走らせた動機のひとつには、庶民生活の困窮度が増し、命をつなぐ糧である托鉢への布施が過去2年間、急減してきたことへの危機感があるという。1日の必要量を得るのに2年前には4、5軒の家をまわれば事足りたのが、いまでは30軒もまわらなければならなくなった、と現地からの情報は伝えている。これを裏返せば、僧侶たちは貧困にあえぐ国民の不満をわがものとして感じ取っているのだろう。だが、こうした若手僧侶たちの抗議行動は、これまた徹底的な取締りで当面、逼塞状態にある。

国軍
強権的な政治体制にあってその権力基盤を脅かすものがあるとすれば、それは外部の力よりも権力内部の矛盾である、というのが、東西を問わず歴史の教えるところだ。ミャンマーの場合、軍政、すなわちSPDCが果たして一枚岩なのか、軍政が依拠する兵力40万人に膨れ上がった国軍が一糸乱れずSPDC議長、タン・シュエ(上級大将、国防相兼国軍司令官)以下の指導部を支持しているのかという点が、こんごの情勢を左右する重要なポイントである。「ミャンマーの軍部は国家組織のあらゆるところまで偏在しており、団結している。レジーム・チェンジはありそうもない」という見方(10月6-7日付け、インタナショナル・ヘラルド・トリビューン紙)が一般的だが、他方、近隣から洩れてくる情報の中には目を引くものがある。

その一つ、10月2日の『アジア・タイムズ電子版』が軍政のナンバー2で副議長のマウン・エイ(上級大将補、国軍副司令官兼陸軍司令官)に近い筋およびタイに亡命している反政府組織からの情報として、9月25にデモへの対処を討議する陸軍各司令官緊急会議が召集されたさい、ナンバー1のタン・シュエが強硬手段を主張したのに対し、マウン・エイおよびヤンゴン地区、北西地区、北東地区の各司令官が実力行使に反対の態度を示したと報じた。また、ヤンゴンの外交筋の話として、9月末にヤンゴンとマンダレーの二都市で一部の兵士が僧侶のデモへの発砲を拒否したという。さらにマウン・エイは、タン・シュエの肝いりで軍政が1993年9月に設立した軍政支持の大衆組織、「連邦団結発展協会」(USDA)をデモ隊取締りに使うことにも反対したとされる。この組織が軍政の威光を笠に着てデモ参加者たちに度を越した暴力を加えるというのがその理由だ。この関連で、10月3日のタイのバンコク・ポスト紙が、ミャンマーの陸軍少佐がデモ参加の僧侶への攻撃命令を拒んでタイに逃げてきた、と報じたのも注目に価する。

軍政の内部抗争として記憶に新しいのは、2004年10月に軍政ナンバー3で首相のキン・ニュン(当時大将、SPDC第一書記)が汚職を理由に突如解任されたことだ。キン・ニュンは士官学校出の他の軍政指導者たちとちがってラングーン大学(現ヤンゴン大学)法学部の出身。独裁者だった故ネ・ウィン将軍に引き立てられ、第44軽歩兵師団長を経て軍情報部のトップになった。軍政内の親中派の大黒柱であると同時に改革指向の国際派として知られ、西側の専門家の中には彼を「ミャンマーの鄧小平」と呼ぶものもいた。1997年にはタン・シュエの反対を押し切ってミャンマーのASEAN加盟を実現した、との情報が当時流れた。2003年8月に首相に任命されるとすぐ、7項目から成る民主化へのロードマップを発表するなど、他の軍政首脳より民主化に前向きだった。キン・ニュンの解任と同時にその影響下にあった軍情報部の幹部たちも徹底的に粛清された。当時、キン・ニュン解任劇を主導したのはタン・シュエとマウン・エイだと見られていた。国軍内のかつてキン・ニュンに近かった勢力がこんご息を吹き返すかどうかも注目を要する。

国際社会
国際社会のミャンマーに対する姿勢を大別すると、次の三つのグループに分かれる。(1)軍政が非民主的であり、人権を無視しているとして経済面をはじめさまざまな面で制裁を課している強硬派。アメリカ、ヨーロッパが急先鋒で、日本も米欧とは一線を画しながら政府開発援助(人道援助は除く)は凍結している。(2)ミャンマーの資源および戦略的価値を重視して軍政と緊密な関係を持つ軍政擁護派。中国、インド、最近のタイなど。(3)ミャンマーを加盟国に抱え、軍政の強権的姿勢を苦々しく思いながら、内政不干渉の原則にしばられて積極的な態度を打ち出せない東南アジア諸国連合(ASEAN)。米欧の強硬姿勢は、中国、インドの軍政支援に相殺されてほとんど効を奏さなかった、というのがこれまでの実情だ。

しかし、こんどの事態を受けて、国際社会の反応に二つの興味深い兆候がきざしている。第一は、ミャンマー問題への地域周辺国にアメリカを加えた多角的取り組みを構築すべしという提案だ。国際的に大きな影響力を持つ米外交誌『フォーリン・アフェアーズ』最新号(11/12月号)は国際戦略研究センター(CSIS)上級顧問兼ジョージタウン大学助教授で前国家安全保障会議(NSA)上級アジア部長のマイケル・グリーンとCSISアジア戦略部長のデレク・ミチェルの共同論文、「アジアの忘れられた危機―ビルマへの新たなアプローチ」を掲載した。この中で二人は、ASEAN、中国、インド、日本、アメリカの5者が連携してミャンマー問題への国際的共同イニシアチブを打ち出すことを提唱している。この構想は北朝鮮の核問題を解決するための6者協議に通じる発想で、米政府の内部にも同様の構想があると見られるところから、こんご現実のものとなる可能性を秘めている。またほぼ時を同じくして、ブリュッセルに本部を持つ国際的な紛争処理研究機関、インタナショナル・クライシス・ウォッチも、中国、インド、ASEAN議長国としてのシンガポールが国連とともにミャンマーの政治危機解決の方途を探るよう緊急アピールを出した。

第二はミャンマー軍政にもっとも影響力を持っている中国の態度に、若干の変化が見られることである。これまで国連安保理がミャンマー問題を扱うことには一貫して反対してきた中国が、10月5日、安保理議長声明を出すべきだとする米英仏の主張に「反対しない」との意向を表明した。これに先立って、ミャンマーで僧侶をふくめた大規模なデモが起きた直後、「中国がミャンマー軍政の崩壊に備えて緊急事態計画を策定している」との報道が北京から流れた(9月27日付けインタナショナル・ヘラルド・トリビューン紙)。真偽のほどは確認のしようがないが、こうした報道が流れること自体、中国の対ミャンマー姿勢が決して単純ではないことを示している。

事実、最近の中国はミャンマー問題で大きなジレンマに立たされていた。一方では、ミャンマーの豊富な資源を確保しておこうという経済的な動機、東南アジアへの進出の橋頭堡としてのこの国の戦略的な重要性から、欧米の制裁の間隙を縫ってミャンマー軍政を支え、これと緊密な関係を維持する政策をとってきた。2004年の親中派キン・ニュンの解任は北京に衝撃を与えたが、その後中国は軍政のタン・シュエ、マウン・エイ、それに第三の実力者トゥラ・シュエ・マン(大将、陸海空軍調整官)のトップ3人と「等距離関係」を保持する方針をとっていると見られる。他方、北京指導部は(1)2008年の北京オリンピックに向けて国際的なイメージを高める必要性、(2)「レスポンシブル・ステーク・ホルダー」、すなわち世界の出来事に責任ある大国として振舞う必要性に迫られており、ミャンマー軍政の無条件の擁護者という印象を世界に与えることには神経質になっている。

また、先のインタナショナル・ヘラルド・トリビューン紙の報道が示唆しているように、国内の大きな混乱で軍政が崩壊するようなことがあれば、中国の東南アジア戦略も、またミャンマーにおける巨大な中国の経済利権も致命的な打撃を受ける、という心配も高まっているようだ。中国が、今年初めごろから機会あるごとにミャンマー軍政に対して野党側との対話を促し、穏健な対応をとるよう説得しているという情報が流れているが、これも以上のような背景があるからだろう。ワシントンもこうした中国の態度の機微を見逃していない。去る1月、安保理で 中国はロシアとともに、ミャンマー軍政に全政治犯釈放を求める米英の決議案に拒否権を発動した。そのさい、米政府関係者は拒否権の理由を「ミャンマーの人権状況に関する見解は中ロも含めみな一致している。足並みの乱れは手続きをめぐる解釈の違いに限られている」(ウルフ国連次席大使)と、中国に「理解」を示す発言をしていた。

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以上の検討から、ミャンマー情勢のこんごの展開を左右する鍵は二つに絞られるのではなかろうか。第一は、権力を持っている軍政内部とその支持基盤である国軍が一枚岩を保てるか。第二は、周辺国とアメリカによる多角的アプローチが実際に形成できるか。とりわけ、これまでの国際社会の反軍政、親軍政という二極的な取り組みが不毛であったことを考えると、第二の「多角的アプローチ」の構想は、①まったく新しい取り組み方であり、②中国を含めて国際社会にミャンマー情勢の行き詰まりに対する懸念が大きくなっている、の二点に鑑みて、現実的解決法としての可能性を秘めている。いずれにしてもミャンマー情勢を見るとき、この二つの局面に注目していく必要がありそうだ。