コラム

対話の条件

2002-11-25
重家俊範 (主任研究員)
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バンクーバーからの帰りの飛行機の中でつくづく考えることがあった。11月13日バンクーバーの街中の歴史を感じさせる「対話のためのセンター」で行われたアジア太平洋対話「アジア太平洋共同体と北米統合:ビジョンの競合か?」という約3時間にわたる公開討論会のことである。ハノマンシンCBC放送アンカーマン、ドブソン・トロント大教授、小和田国問研理事長、ドブロニック南加州大副学長、ヤン・アジア企業統治協会会長と150人足らずの参加者との間の議論が面白かったこともある。カナダ人が、これほど、米国との関係で、アイデンティティ・クライシスに陥っていることは驚きだったが、私にとってもっとも印象に残るのは、会場の仕組みと対話の進行具合であった。対話とは、そもそも何なのか。

対話のためのセンターは、1997年のAPEC首脳会議開催に当たってバンクーバーの果たした支援に対する連邦政府の感謝の印としてバンクーバーに贈られたもので、現在サイモン・フレーザー大学が管理しているものだと聞いたが、この会場は、360度の円形劇場で、鉢のようになだらかに中心に傾斜しており、座る人は、360度に亘って、参加者を見渡せるのである。参加者は、会議場の入り口で、A4版の紙を横に二つ折りにした程度の自分の名前が書かれた名札を受け取り、自分の前に立てかけるのである。参加者から、自分が誰かというのが見て取れるわけである。もちろん、名前だけで、肩書きなどは書かれていない。パネリストがどこに座っているのかとはじめ不審に思ったが、討論が始まって初めてわかったことは、4人のパネリストは、それぞれ四方に亘って参加者の中に散らばっていたのである。そして、討論が始まった。色々の人々が手を上げ、討論に参加した。政府関係者、学者、企業関係者などが。意見交換の方向の軌跡を描けば、演壇と参加者を結ぶひとつの直線ではなく、この場合は、円の中で、あらゆる方向に向かう直線であった。

本当の意味で、対話が成立するには、一定の条件があるのではないだろうか。第一は、参加者が、見解、意見を持っていることである。そのためには、皆が何かを考えていることが必要となる。意見がなければ、そもそも対話が成り立たない。第二は、一定の「気持ちの共有」が必要ではないか。どんな曖昧なものでも良い。お互いをもっと理解したいとか、とにかく議論したいとか、皆で共同作業をするために意見の集約を図るといったことである。相手を誹謗したり、やっつけようとする意図を持って参加するのであれば、はじめから、本当の意味での対話は成立しない。第三は、他の参加者の意見を尊重することである。寛容(トレランス)といっても良いであろう。こういうことを言ったあいつはけしからん、あいつはxx主義者だといった人格と結びつけるようでは、対話は育たない。異なる意見をよく聴く雰囲気が必要だし、それを守ることが必要だ。しかし、何らかの意見の収斂を求める場合は、やはり、多数の者の意見に従うことになる。少数は、多数に譲らざるを得ない。その意味では、自分の意見を調整する用意を参加者が持っていることも必要かもしれない。最後に、意見が異なっていても、後味が良いのが、「良い対話」だといえるのではないだろうか。