コラム

「東アジア共同体」の虚と実

2005-11-21
梶田武彦(特別研究員)
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最近、東アジアに「共同体」を構築していこうとの機運が高まっているように見える。だが、この構想を実現できる可能性は低い。過剰な期待を捨て、経済面を中心とした地域協力を地道に積み重ねていくことでよしとすべきだ。

進展する地域協力

「東アジア共同体」論がマスコミや学界をにぎわしている背景には、1990年代後半以降、グローバリゼーションのうねりの中、域内における経済的相互依存関係が急速に深化したことがある。97年のアジア通貨危機、2001年の米国同時多発テロ事件によって地域協力の重要性に対する意識が高まったことや、自由貿易協定(FTA)締結に向けた動きが活発化したことなども大きな要因である。

経済的な相互依存度で見ると、東アジアの相互依存度は既にかなり高い。03年の東アジア――日本、中国、韓国に香港、台湾、東南アジア諸国連合(ASEAN)を加えた地域――の域内貿易依存度は53・3パーセントで、北米自由貿易協定(NAFTA)の44・5パーセントを上回り、欧州連合(EU)の60・3パーセントに迫っている。

地域協力も多面的、重層的に進展している。ASEANプラス3(日中韓)の枠組みによる金融、貿易・投資の円滑化などでの協力がその代表例だ。金融危機などの緊急時に米ドルなどを融通し合う通貨交換協定(チェンマイ・イニシアチブ)やアジア各国が現地通貨建て債券を発行し、米ドル建て以外の資金調達を可能にするアジア債券市場育成構想は、アジア通貨危機の原因の1つでもあった米ドル依存体質からの脱却に向けた画期的な第一歩である。

ASEANプラス3を核とした東アジア諸国の間ではまた、2国間および多国間のFTAが急速に締結されてきている。中国とASEANは今年の7月、FTAの中枢となるモノの関税引き下げを開始した。日本はシンガポールとの協定を発効させており、フィリピン、マレーシア、タイとも同様の協定締結で基本合意に達している。その他、韓国やインドなども巻き込んで、東アジアにおけるFTA熱は高まる一方だ。

域内の貿易・投資の自由化が進むと、いずれは各国間での為替レート安定のための政策調整が必要となってくる。為替レートが変動すると、FTAによる関税削減効果が減殺されるからだ。つまり、資本移動の自由な現在、モノの貿易や企業による投資といった次元だけで他国との通商関係を考えるのは不十分なのである。東アジアでも、ドル、ユーロ、円などの主要通貨のバスケットに対してレートを設定する為替制度の導入が望まれる。各国が共通のバスケットを採用すれば、相互間での為替レートは安定し、財の取引や生産の効率化も促進されるだろう。

「機能的アプローチ」の限界

このように、FTA網が広がり、金融面での協力が深化していく流れはもう止まらない。ただ、こうした動きが東アジアの経済統合、ひいては「共同体」創設につながっていくと考えるのは短絡的にすぎる。「協力と統合は違う」(経済産業省幹部)からだ。

共同体形成の方法論としては、まずは包括的な制度的・法的枠組みを構築することによる「制度的アプローチ」とさまざまな機能分野における協力を推進、各分野の制度的・法的枠組みの整備を促し、これらを有機的に関連づけていくことによる「機能的アプローチ」の2つが考えられる。欧州と異なり、人種的、宗教的、文化的な多様性が存在する東アジアでは、現時点では、制度的・法的枠組みを構築する客観的な条件は整っていない。「だからこそ、東アジアでは機能的アプローチによる統合を」という主張をよく聞く。欧州統合も石炭・鉄鋼(ECSC)、原子力(EURATOM)という個別の機能分野における協力からスタートしたことを引き合いに出して、東アジアでも同様のプロセスが可能とする向きもある。

しかし、この地域には多様性のみならず経済発展段階の違う国々が存在しており、また各国の政治経済体制も大きく異なっている。欧州には「ほぼその歴史の中に共通の経済制度への共振化の条件が準備されていた」(原洋之助・東大教授)が、こうした歴史的条件は東アジアには整っていない。これほど異質な国々の間で、機能的協力を積み上げる方式で経済を統合して共同体結成までこぎつけることができるのか、大いに疑問である。

東アジアにFTAの網の目が張り巡らされることは、必ずしも歓迎してばかりいられる話ではない。点と点を結んで何本の線を引いていっても面にはならない。FTA網と関税同盟は別ものなのである。関税同盟でないとはすなわち、各FTAで異なる原産地規則が定められるということで、FTAの数だけ規則が生まれることになる。域内で最適な生産・供給体制構築が至上命題の企業にとっては、複雑な原産地規則は少なければ少ないほど良い。東アジア全域を包摂するFTAができ、それがさらに域外関税を共通にする関税同盟にまで進化するのが理想だろう。だが、東アジアの現状を見ると、例外や規則が入り乱れて行き詰まってしまう「スパゲティ・ボウル現象」が生じる可能性の方が高い。また、FTAの広がりは域外への貿易転換効果も大きくなり、世界規模での経済厚生を損なう危険性をはらんでいる。

金融面でも、東アジア共通通貨導入を主張する人は多い。黒田東彦・アジア開発銀行総裁は「おそらく20-30年後には、東アジアでも共通通貨実現に向けた動きが出てくるだろう」と筆者に語ったことがある。共通通貨ができれば為替リスクに悩まされることはなくなるが、各国が独立した金融政策を放棄することになる。異質な国々が地理的に近接しているにすぎず、近隣諸国同士で摩擦の絶えないこの地域で、主権の一部を放棄してまで共通通貨を創設しようという強い政治的意思を形成することが20-30年というスパンで果たして可能なのだろうか。

ナショナリズムの地政学

以上、経済面からの統合の難しさを概観してきた。しかし、本当に難しいのは政治・安全保障面である。共同体を構築するためには、政治体制や安保の枠組み、さらには自由と民主主義といった価値観を共有しているか、あるいは近い将来に共有できるという見通しがなくてはならない。また、この地域の3大国である日中韓が手を組む必要がある。だが、実際には、日中、日韓関係は全く逆の方向に向かっている。第2次世界大戦が終わって60年がたつが、中国、韓国での反日ナショナリズムは燃え盛る一方であり、和解などとてもできそうな雰囲気にはない。

「小泉純一郎首相の靖国神社参拝が原因」とする見方は多い。もちろん、そういう側面があることは否定しない。ただ、首相が参拝を中止すれば日中、日韓関係が劇的に良くなるかというと、そんなことはないだろう。中国、韓国における反日はもっと根深いものだからだ。

中国の場合、反日感情が今のように高まったのは90年代の半ばからである。その少し前の92年には、天皇・皇后両陛下のご訪中が日中友好ムードの中で実現している。ことの始まりは94年の「愛国主義教育実施綱要」の発表だった。いわゆる反日教育を徹底すると同時に、南京の南京大虐殺記念館や盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館といった「愛国主義教育基地」を全土に建設して、日本憎悪を駆り立てた。権力基盤がまだ脆弱だった江沢民氏が自らの求心力を高めようとして、反日カードを切ったことによるものだ。その結果、戦争体験のない若い世代の方がそれ以上の世代より反日感情が強くなってしまった。

韓国の反日教育の歴史はもっと長く、対日感情が厳しさを増しているとしても驚くことはない。とはいえ、昨年成立した「反民族行為真相究明特別法」によって日本統治時代の対日協力者を探し出してこれを糾弾すると聞くと、日韓の断絶の深さをあらためて感じざるを得ない。

中国と朝鮮半島のナショナリズムはそれぞれが「古層」として固有の中華思想を持ち、その上に「新層」の国家主義や民族主義が載った2重構造のナショナリズムだと古田博司・筑波大教授は分析する。北東アジアでは「日本侮蔑は伝統であり、反日は修正不可能な、いわば国是」なのだそうだ。そうだとすれば、日本が歴史問題について反省と謝罪をどれだけ繰り返したところで、問題の抜本的解決にはならないということになる。

日本の選択

東アジアでは今後とも経済面での相互依存は高まっていくだろう。他方、政治や安保面では域内諸国だけでは解決できない問題があまりにも多い。日本にとっては、米国との同盟関係が引き続き重要だし、東南アジア諸国も米国の関与がこの地域の平和と安定に欠かせないと見ている。

先に米ドル依存体質からの脱却の必要性について触れたが、これは「離米」を意味するものではない。いかなる共同体も排他的性格を持つものだが、東アジア共同体も米国のこの地域での存在感を薄める働きをするだろう。これは日本の国益にならない。

東アジア共同体というのは地域協力の重要性を訴える文脈で浮上してきた構想だが、ニーズが特にあるわけでもなく、技術的にも難しい。にもかかわらず、言葉だけが独り歩きして、虚像を膨らませてしまっている。実体のないものに期待をかけ過ぎるのはいかがなものか。現時点では、大風呂敷を広げるよりは、経済分野を中心に東アジアの現実に則した各種協力を継続、強化していくことに徹した方が無難であろう。