領土・主権・歴史センター

杉原千畝の「命のヴィザ」とユダヤ難民の救出1940-41年

2023-11-28
稲葉千晴(名城大学都市情報学部都市情報学科教授)
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稲葉千晴教授(名城大学都市情報学部都市情報学科)より寄稿いただいた論考を掲載します。なお、論考は執筆者の見解を表明したものです。

1918年に独立したリトアニアは、大統領制を採り一院制の議会を有する人口200万人強の共和国だった。1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに攻め込み、第二次世界大戦が勃発する。ポーランドは独ソに分割占領されてしまった。

ポーランド分割直後の39年9月28日、独ソ友好境界条約が締結され、リトアニアはソ連の勢力圏に組み入れられた。10月10日にリトアニア・ソ連相互援助協定が締結され、ポーランド領だったヴィリニュス地方の返還およびソ連軍2万人のリトアニア駐屯が決められた。

独ソ占領下のポーランドから約5万人の難民が中立国リトアニアに押し寄せてきた。85%の難民は、国境を接する東ポーランドからヴィリニュス地方に入ってきた。難民の半数1万5千名は信仰心の篤いユダヤ教神学校の生徒、教師とその家族である。残りの15%の難民には、独占領下の西ポーランドから自主的に逃れてきた比較的裕福な人々と、併合後にドイツ人に家や土地を奪われた農民が含まれている。

リトアニア政府は人口の2%もの難民を受け入れた。そこに冬が迫ってきた。暖房設備のある建物でなければ難民が凍え死んでしまう。冬用の衣服に温かい食事、子供たち用の学校や病院までも用意した。難民の多くはパスポートを保有していない。希望者にパスポートの代わりとなる安全通行証を発給した。通行証の裏側にヴィザを記載してもらえば、外国に旅行できる。

40年6月半ば、リトアニアはソ連によって全土を占領され、8月3日に併合された。土地や企業が国有化され、集会や信教の自由が奪われた。41年6月22日に独ソ戦が始まると、リトアニアはすぐさまドイツ軍によって占領され、ホロコーストの嵐が吹き荒れる。同国在住のユダヤ人15万人の90%以上が虐殺された。

39年8月、ソ連通外交官の杉原千畝は、リトアニアの首都カウナスに領事として赴任した。目的はソ連情報の収集であり、領事業務は想定されていない。ところが40年7月半ばリトアニアで共産主義政権が誕生し、ソ連への併合が間近に迫った。敬虔なユダヤ人は、信仰の自由を求めてリトアニアから安全な国へ亡命しようと試み、カウナス駐在の各国外交代表部に難民受け入れを打診した。だがどの国の代表部も首を縦に振らない。

ヤン・ツヴァルテンデイク・オランダ領事代理だけが、2200通ほどの「キュラソー・ヴィザ」を発給した。カリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島上陸にはヴィザが必要ない、と領事が保証する。あたかも入国ヴィザのようにみせかけたものだった。その証明書が難民の日本ヴィザ取得に不可欠なものとなる。

7月18日朝、日本領事館の周りは難民で埋め尽くされた。驚いた杉原に対して、ユダヤ人の代表がキュラソー・ヴィザを見せ、中米に行くため日本の通過ヴィザ数千人分が欲しいと訴えた。当惑した杉原は東京の外務省に打電する。電報を受けた本省も対応に苦慮した。日本はユダヤ人を差別しないとはいえ、原則として難民を受け入れていない。国内通過だけは許可していたものの、もし難民が日本国内に滞留すれば、大きな社会問題が発生する。東京はヴィザ発給の条件として①目的国の入国ヴィザの取得、②日本から目的国までの旅費および日本国内滞在費相当額の所持、を確認するよう杉原に命じた。

共産主義ソ連の内情を熟知する杉原は杓子定規の返事に困惑した。難民たちの目的はリトアニア出国であり、日本に長期滞在するつもりはない。キュラソー・ヴィザを目的国の入国ヴィザと同等だとみなしてやらなければ、ソ連政府によって宗教弾圧を受けて強制収容所に送られる。当時のリトアニアでは厳しい外貨制限があり、難民が目的国までの旅費を手に入れることは不可能だった。難民が日本に向かう途中で滞在費を受け取れれば、カウナスで所持金を確認する必要はない。8月中には日本領事館の閉鎖をソ連側から求められており、難民が必要書類をそろえる、あるいは杉原が書類の到着を待つ時間など無いに等しかった。日本から目的国までの旅費がない難民には、ウラジオストクの日本領事館が入国を認めなければよい。規定通り国家の利益を代弁するのか、本来ならば通過ヴィザを受け取れる難民の権利を優先するのか。良心的な杉原は、ユダヤ難民の窮状も理解した上で、彼らの要求を受け入れるべきだと判断した。7月末にヴィザ手続き開始を決断する。杉原は、当初手書きで安全通行証に通過ヴィザを記入していた。しかし一日に数十通しか発給できない。そこでスタンプを用意して、スピードアップを図った。9月5日にカウナスを離れるまで、彼は書類上2140通のヴィザを発給している。

40年10月から41年春にかけて、2200~2300名のユダヤ難民が通過ヴィザを持ってウラジオストク経由で敦賀に到着した。多くは神戸ユダヤ人協会の助けもあって神戸に住みついた。第三国の入国ヴィザを有している者は目的国へ渡航できたが、ヴィザのない1千名余は米ユダヤ基金の支援を受けつつ神戸での滞留を余儀なくされた。41年7月の日本の仏領インドシナ南部への進駐を契機に、アメリカは日本に対して石油の禁輸を断行し、支援金の送金手続きも禁止した。日本政府は治安・国防上の理由から残った難民全員を日本軍支配下の上海に移送する。上海のユダヤ難民は、日本軍によって居住や移動が制限され、過酷な状況下で戦時中を過ごした。戦後、アメリカ・カナダ・オーストラリア・パレスチナなどに定住先を見つけ、旅立って行った。

日本通過ヴィザ発給のもう一つの条件である旅費に注目してみたい。難民の多くは貧しい神学生であり、高額なシベリア鉄道のチケットを自ら購入できない。自力では欧州脱出は不可能だった。ジョイント(米ユダヤ人合同配分委員会)などの米ユダヤ基金は、ホロコーストで苦しむユダヤ難民を救出するため、全米で募金を集め、ヨーロッパ各地に係官を派遣して救援資金を送っていた。リトアニア派遣員のモーゼス・ベッケルマンは、共産党によって凍結された銀行口座にアメリカからの送金を可能にするなど、難民たちの旅費の工面で走り回った。彼は41年2月にリトアニアを離れ、杉原の発給したヴィザで来日し、難民の最終目的地を探すため尽力している。アメリカ在住のユダヤ人による数十万ドル(今日の数百万ドル)の寄付金なしに、リトアニアからユダヤ難民を救出できなかった。

杉原は領事館閉鎖という緊急事態に直面して、領事としての裁量権を最大限に生かして、窮地に陥ったユダヤ人に通過ヴィザを発給した。彼の姿勢は、人道主義の見地から高く評価できよう。ところが41年6月に独ソ戦が勃発して独占領下のリトアニアでユダヤ人の大半は殺された。杉原の善意は2千数百名のユダヤ人をスターリンからだけでなく、結果としてホロコーストからも救った。「命のヴィザ」が高く評価された所以である。

リトアニアからの難民の救出は、杉原千畝による良心的な日本通過の許可、いわゆる「命のヴィザ」だけでは不可能だった。難民発生当初、リトアニア政府が難民の受け入れを制限せずに献身的に衣食住の支援をしたからこそ、難民は次のステップに進むことができた。米ユダヤ基金による難民への金銭的な支援も重要である。その原資は全米のユダヤ移民に呼びかける募金だった。たとえ少額でも慈愛の現れである募金が多くの人々から寄せられれば、難民を救う大きな力となる。今日でも、人道的な配慮、国家の決断、民衆による募金があれば、多くの難民を救うことが可能となろう。

《主要参考文献》

愛知県教育委員会編『杉原千畝と20世紀の日本・世界・愛知』稲葉千晴監修(浜島書店、2020年)

シモナス・ストレルツォーヴァス『第二次大戦下リトアニアの難民と杉原千畝:「命のヴィザ」の真相』赤羽俊昭訳(明石書店、2020年)

稲葉千晴『ヤド・ヴァシェームの丘に:ホロコーストからユダヤ人を救った人々』(成文社、2020年)

稲葉千晴「杉原千畝の「命のヴィザ」と米ユダヤ基金の難民支援」『名城大学総合研究所紀要』第28号(2023年)141-44頁