領土・歴史センター

尖閣諸島領土編入経緯における英国海図についての考察
―明治18(1885)年の沖縄県による調査報告―

2024-09-09
國吉まこも(尖閣諸島文献資料編纂会)
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はじめに

沖縄本島の西方沖、八重山諸島の北方、東シナ海大陸棚縁辺上に連なる無人島群、大正島、久場島、南小島、北小島、魚釣島の5島、沖の北岩、沖の南岩、飛瀬の3岩礁を総称して、尖閣諸島と呼ぶ。

1885年、沖縄県では尖閣諸島に職員を派遣して現地調査を行ったのち同県への所轄編入を明治政府に上申した。その後の1890年、1893年と再度の上申がなされ、1895年政府はこれを許可し、領土編入が閣議決定された。

尖閣諸島領土編入経緯の研究において、村田忠禧はその著作の中で1885年の調査は大東諸島(南大東島、北大東島)が最初に行われ、つづいて尖閣諸島(久米赤島[※筆者注、現大正島のこと]、久場島、魚釣島)の調査が行われたことから、当時実施されたのは「沖縄近海無人島取調」という、同県周辺無人島への一連の調査であったと指摘する1

実際、尖閣諸島調査に際して事前に沖縄県令より内務大臣にあてられた上申書には「...過日御届及候大東島(本県ト小笠原島之間ニアリ)トハ地勢相違...」とあり、大東諸島、尖閣諸島とつづく調査の連続性がうかがえる2

沖縄県による1885年の尖閣諸島調査が単体のそれではなく、その目的は、同県近海の無人島群の調査にあったとする、村田氏の指摘はおそらく正しい。1970年ごろにはじまり、これまで積み重ねられてきた尖閣諸島に関する論考の中でも画期的なものと筆者は考える。

その上で、気になる点をあげたい。村田氏もその著作の中で再三にわたり引用、論述等で触れているが3、たとえば沖縄県から提出された「久米赤島・久場島・魚釣島之三島取調書」4には「...右三島ノ名称ハ従来沖縄諸島咸(※みな)唱フル所トス。今之ヲ英国出版ノ本邦ト台湾間ノ海図ニ照スニ...」とあり、この時実施された無人島調査には参考となった「英国海図」が存在する。村田氏の考察はこの英国海図がどのようなものであったかには及んでいない。村田氏以外の論考でも、この英国海図の点については、これまで見過ごされてきたように思われる。

本稿では1885年に実施された尖閣諸島及び大東諸島調査(※沖縄県周辺無人島調査とよぶ)の際、調査の参考とされた英国海図がどのようなものだったのか、考察したい。

1. 1885年の沖縄県周辺無人島調査(大東諸島・尖閣諸島)

1885年、外務省・内務省・沖縄県による協議のもと、沖縄県周辺無人島調査が計画された。調査には、当時日本本土と沖縄本島那覇の連絡を密にするため同県がチャーターしていた共同運輸会社所属の蒸気船出雲丸5の使用が決定され、同年8月末に沖縄本島東方沖の太平洋に浮かぶ大東諸島、つづいて10月末には西方沖の東シナ海に浮かぶ尖閣諸島が、沖縄県職員らによって実地調査された。調査後、内務省に提出された沖縄県報告書を見るに、実行にあたって英国海図が参考とされた事がうかがえる。以下に該当部分をあげてみよう。

大東諸島の報告6には、出雲丸の林鶴松船長が、「...幣船(※筆者注、出雲丸のこと)ハ英国出版ノ海図ヲ用ヒシカ、本島ハ千八百五十四年亜米利加出版ノ海図ヨリ抄写セシモノニシテ、恐クハ「ペルリ」回島ノトキ測量セシモノナラン...」、尖閣諸島の報告7では、石沢兵吾県勧業課長が、「...今、実地踏査ノ上猶英国出版ノ日本台湾間ノ海図ニ照スニ...魚釣島ハ Hoa pin su、久場島ハ Tia u su、久米赤島ハ Raleigh Rock ナルヘシ...」と英国海図と地元沖縄の名称を照合し、つづけて「(※日本)海軍水路局第十七号ノ海図ニ拠レハ宮古島ノ南方大凡二十海里ヲ隔テテ、イキマ島ト称シ長サ凡五海里位ニシテ八重山ノ小浜島ニ近キモノヲ載セ...英国出版ノ日本台湾間ノ海図ニモ Ykima (Doubtful) ト記シ以テ其有無疑ノ間ニ置ケリ...」とそれぞれ述べており、現地調査を実行するにあたって、当時刊行されていた英国海図を参考としたことがうかがえる。

2. 英国海図の考察、第2412号海図

当時の調査で参考とされた英国海図とはどのようなものだったのか。

結論を先に述べると、英国海図第2412号(admiralty chart no.2412)が該当する図に近いと考える。

すなわち、東京大学史料編纂所(※以下史料編纂所とよぶ)が所蔵する赤門書庫旧蔵地図群に収められている 第2412号海図、1855年刊行・1865年修正版:「Tung - Hai or Eastern Sea the islands between Formosa and Japan with the adjacent coast of China 1855. 」(東シナ海 台湾と日本間の諸島および隣接する中国海岸)がそれである8

史料編纂所図より、冒頭にあげた林・石沢の報告の文言にあたる部分を照合してみると、大東諸島(北大東島、南大東島)の箇所(N.Borodino、S.Borodino)には林が報告で言及したように、1854年製米国海図より転記したことが注記され、尖閣諸島(久場島、南小島、北小島、魚釣島、大正島)の箇所には Ti-a-usu, Hoa pin su, Pinnacle I.ds, Raleigh Rock が、宮古島の南にはイキマ島、Ykima (Doubtful) が記されており、1885年の調査で報告された内容と一致する。筆者がこれまで確認した英国海図のうち、1885年の調査報告と海図に記された情報が一致するのは、現在のところ、この2412号図のみである。

・図版a:史料編纂所所蔵図より、大東諸島部分

・図版b:史料編纂所所蔵図より、尖閣諸島部分。この時点ではRaleigh Rockの位置が確定していないことがうかがえる9

・図版c:史料編纂所所蔵図より、宮古島とイキマ島部分

2412号海図の全体を見ていくと、この図は東シナ海に浮かぶ現在の沖縄県と奄美諸島およびトカラ列島、いわゆる南西諸島をその中心におき、その西側には台湾島の上半分と台湾海峡および中国東海岸(北端は揚子江)、東の太平洋には大東諸島(南北大東島、沖大東島)が描かれ、東側の北端には九州南部鹿児島県大隅・薩摩半島が描かれた、その名称通り、台湾から日本までを航海する際に参考となるよう、その間の島々に焦点を当てたものとなっている。

1885年の調査報告と同図を並べてみると、琉球列島(沖縄県)の周辺、確かに東方の太平洋には Borodinoと記された島々(大東諸島)が南北に、西方の東シナ海、八重山諸島の北方にはPinnacle islandsと記された島々(尖閣諸島)が浮かび、宮古島の南には Ykima(Doubtful)、イキマ島が見て取れる。沖縄県周辺の無人島群を、この図はことごとく示しているといえる。そのような理由から、1885年、沖縄県周辺の無人島・大東諸島、尖閣諸島を調査するにあたり、同図が参考とされたと考える。

史料編纂所図には便宜上名付けたと思われる付箋紙が貼られており、名称を『琉球諸島及支那(※中国)海岸』とするが、当時の所蔵者が整理するにあたりその名称を付与した理由も同じく、琉球諸島を中心とした図であることに印象付けられたものと推察する。

・図版d:東京大学史料編纂所 赤門書庫旧蔵地図群より、英国海図第2412号(admiralty chart no.2412)
「Tung - Hai or eastern sea the islands between Formosa and Japan with the adjacent coast of China 1855. 」1855年刊行、1865年修正版、全体図

3. 英国海図の考察、第1262号海図

もちろん、図の中に尖閣諸島を描いた英国海図は他にも存在する。たとえば、中華人民共和国の釣魚島デジタル博物館は「...1877年イギリス海軍作成の『香港から遼東湾に至る中国東海沿海海図』(※以下「釣魚島博物館図」とよぶ)などはいずれも釣魚島(※尖閣諸島のこと)を中国の版図に組み入れている...」と説明して、英国海図を紹介、領有権主張の根拠の1つとしている。

・図版e:釣魚島デジタル博物館10より、1877年イギリス海軍作成の「香港から遼東湾に至る中国東海沿海海図」

上の図は、釣魚島博物館サイトに提示されるものだが、海図の一部分を載せるにとどまり、残念ながらその全体像は確認できない。

この図の全体像はどのようなものなのだろうか。釣魚島博物館図と完全に同一とは言えないが、別の年代版の図はインターネットで複数公開されていて、その中の1つ、台湾(中華民国)の中央研究院數位文化中心(デジタル文化センター)が紹介する「英国海軍部編〈中国-香港至遼東〉(China from Hong Kong to Liau-Tung)」(国立台湾歴史博物館所蔵)はその全体像が確認できる11

中央研究院の説明によると、この図は、「圖幅編號:1262號」(admiralty chart no.1262, ※以下中央研究院1870年修正図と呼ぶ)で、その刊行年月は古く、1860年2月に刊行、その後「曾於1867年10月、1869年5月及7月、1870年8月有過4次更正」、4回に渡る修正がなされている。

この1262号海図の全体を見ていくと、この図は、香港から遼東湾、台湾と台湾海峡を含む中国東部沿海をその中心におき、周囲には東シナ海に浮かぶ島々、台湾の東側には、尖閣諸島、八重山諸島、宮古諸島および久米島周辺諸島。地図の上部、黄海とその東側には、済州島を含む朝鮮半島西部を配置した構成になっている。

1262号海図は、明治政府も利用している。同海軍省水路局が1884年に刊行した『寰瀛水路誌』第4巻は中国東部沿海の水路情報をまとめたものだが、索引図の項には「香港ヨリ遼東ニ至ル総図即チ一二六二号ヲ参観スベシ」と注記があり、1262号図を参照するよう求めている。他にも時代が古くなるが1877年に同局が刊行した「清国沿海諸省図」は、作成の際に同図を参考としたことが『水路部沿革史』12に記されている。

・図版f:英国海図第1262号、1860年刊行1870年修正版全体図、中華民国中央研究院デジタル文化センターより13

それではこの1262号海図は、沖縄県が実施した1885年の調査で参考とした英国海図なのだろうか。2412図の項で確認したように、1885年調査の報告と海図に描かれた情報を照合してみよう。この項では釣魚島デジタル博物館の1262図、中央研究院デジタル文化センターの1262図1870年修正版の2つをみたわけである。

まず、釣魚島博物館図を見てみよう。たしかに尖閣諸島部分(Ti-a-usu, Hoa pin su, Pinnacle I.s, Raleigh Rock)が描かれてはいるものの、石沢兵吾が報告書で指摘した宮古島の南方に描かれたイキマ島「Ykima (Doubtful) 」は確認できず、沖縄本島の東側太平洋に浮かぶ大東諸島に至っては海図の示すはるか範囲外にある。

・図版g:釣魚島博物館図より尖閣諸島部分14

・図版h:釣魚島博物館図より、宮古島とその南方沖部分

・図版i:釣魚島博物館図より、図の東端、沖縄本島とその周辺部分

次に、中央研究院1870年修正図を見てみよう。釣魚島博物館図同様、尖閣諸島部分の島々と島名は報告書の内容と重なり、宮古島の南には「Ykima(P.D)」(※Position Doubtful=位置が疑わしいの意、報告書の文言とは若干の違いがある)、と描かれた一小島が確認できる15。だが、図の東端を見ると描かれたのは沖縄本島の一部に留まり、大東諸島はその範囲外になっている。

・図版j:中央研究院1870年修正図より、尖閣諸島部分16

・図版k:中央研究院1870年修正図より、宮古島とイキマ島部分

・図版l:中央研究院1870年修正図より、図の東端、沖縄本島とその周辺部分。「LU-CHU GROUP OR LIU-KIU」の上、「(see plan 2416)」(※2416図を参照)との記載が見られる。

以上、1262号英国海図―釣魚島博物館図と中央研究院1870年修正図―について、それぞれ1885年調査報告書の箇所と海図における情報を照合した。尖閣諸島部分については、ほぼ一致した内容だが、釣魚島博物館図にイキマ島は記載されていなかった。大東諸島に関してみると、そもそもが両図ともに図示する範囲外であった。

なお、同じ1262海図であるはずの、釣魚島博物館図と中央研究院図において、なぜ一方にはイキマ島がなく、一方には記載されているのか、付言してこの項を終えたい。

イキマ島(Ykima)は英国に限らず、西洋で作成された他の海図類、それらを参考とした日本側、中国側のさまざまな覆版にその姿が描かれるものの、実際には観測できない「幻の島」であった。 

1906年、日本では8月27日付官報で「イキマ島」の不存在と削除を水路部が告示、同告示によると英国側では1900年10月に不存在と海軍海図より削除を告示したことが報告されている。すなわち、イキマ島が描かれていない釣魚島博物館の1262号海図は少なくとも1900年10月以降に出された修正版と考えられる。

その頃の尖閣諸島を見るに、1895年に明治政府による領土編入が閣議決定、翌1896年より沖縄県の許可を受けた福岡県人古賀辰四郎が開拓を行っている最中にあった。

4. 英国海図の考察(日中双方に与えた影響)、2412号・1262

以上、1885年の沖縄県による大東諸島・尖閣諸島調査の際に参考とされた英国海図について、南西諸島を中心に置いた2412号海図、中国東部沿海を中心に置いた1262号海図をそれぞれとりあげ、検討を行い、1885年の調査で提出された報告書の文言と海図に記載された情報を照合すると、該当する海図は2412号の可能性が高いことを確認した。

中国が尖閣諸島の領有を主張するため、中国東部沿海を描いた1262号をその拠り所としたい意図は、同図に尖閣諸島が描かれていることを考えると、理解できなくもない。だが、1885年の沖縄県による調査で実際に参考とされた海図は、南西諸島を中心に描いた2412号と考えられる。

当時の沖縄県、調査を命じた明治政府には、自国(沖縄県)の領域(県域)確定のための、周辺海域にある無人島調査という意図があり、その作業に際し、沖縄県周辺無人島がことごとく描かれた英国海図第2412号が参考とされたと考える。

2412号・1262号など東アジア海域を描いた英国海図は、当時の日本・中国にとって、自国の周辺海域認識に大きく影響を与えたようである。

 1262号海図について、鳴海邦匡・渡辺理絵・小林茂の研究は、当時中国(清国)が刊行した『大清一統海道総図』は1262号海図とほぼ同一の範囲を図示しており、アメリカ議会図書館が蔵する1262号海図1860年刊行版が「その原本に近いものと判断される」と分析する17。当時の中国は西洋の海図情報等の知識を積極的に取り入れ、周辺海域の認識を積み重ねていったと考えられる。

日本側でも、先述したように政府海軍省水路局が刊行した『寰瀛水路誌』第4巻(中国東部沿海)では、1262号海図を参照するよう求めている。

2412号海図について、1886年刊行の『寰瀛水路誌』第1巻下巻18、州南諸島の項は現在の南西諸島にあたる島々を航海する際の水路情報をまとめたものだが、編纂した水路局は参照すべき海図として「英版海図第二千四百十二号」をあげている。

1888年になると日本では2412号海図の覆版が刊行された。同年10月23日官報で、水路部長肝付兼行は水路告示第365号第999項にて、7月に海軍海図第210号「日本 自鹿児島海湾至台湾 支那東岸付近(Japan Kagoshima gulf to Taiwan with the adjacent coast of China)」を新たに刊行した旨告示したが、その告示には同図は「英海軍海図第2412号1863年出版81年改正図ニ更ニ我近時ノ測量ヲ加ヘ改版シタルモノ」との説明が添えられている。

一方、英国では1891年8月にadmiralty chart no.2412を改訂、これまでの英国及び諸外国政府の調査による後継図として名称を新たに付与、「China and Japan Amoy to Nagasaki including the Yang Tse Kiang and the islands between Formosa and Japan」(中国と日本 厦門より長崎に至る、揚子江および台湾と日本間の諸島を含む)を刊行した。

1897年3月、日本水路部はこの後継図の覆版、すなわち海軍海図210号改訂版「長崎至厦門」を刊行して「自鹿児島海湾至台湾」の 後継図とした19

1900年に尖閣諸島魚釣島を中心に学術調査を行った黒岩恒は、沖縄県私立教育会常集会における講演上、「...現今航海者の使用して居りまする長崎厦門間の図面は一千八百九十一年英国海軍海図の覆版です...」20と述べた上で、尖閣諸島へ航行する際に、同図に記載されている疑存島イキマ島を探索したがついに発見できなかった顛末を紹介した。

南西諸島を航海する際の参考として刊行された2412号英国海図は、修正・改訂および覆版がなされながら、その後も多くの人々によって同海域を航海する際の参考として利用されたことが、黒岩の報告からうかがえる。

以降、どのくらいの改訂版が刊行され、修正がなされたか、筆者の知る限りでないが、現在の海図第210号は「W210(INT536) 長崎至厦門」(2007年12月刊行)として、日本水路協会が販売しており、その利用は継続されているようである。

5. むすびにかえて、英国海図の本邦渡来2412号、1262

以上、1885年の沖縄県による尖閣諸島調査の際、参考とされた英国海図に関して、2412号海図、1262号海図について検討を行い、該当図が2412号により近いものであることを確認するとともに、それぞれの図が日本と中国の周辺海域認識に与えた影響について考察した。

1885年調査で、実際に使用された2412号海図がどの年代の版かについては、残念ながら特定するには至っていないのが現状である。あえて推測するなら、1888年に水路部が刊行した覆版の説明には1881年修正版を下敷きとした旨記されており、その版に近いものになると考える。1881年修正版原図の確認は今後の課題といえるだろう。

またこの図がいつごろわが国にもたらされたものなのか、史料編纂所が所蔵する2412号海図を見るに、1855年刊行の1865年修正版であることが確認できる。アジア歴史資料センター、防衛研究所蔵、海軍省公文類纂、明治6年の簿冊群には、同年10月に同省文書課より秘史局あての至急購入希望とする「支那東岸図」のリストが収録されており、同省水路寮(当時の水路部)が「支那水路誌付属海図目録」を元に、中国東部沿海方面の英国海図第1262号(支那東岸全図)、第2412号(台湾日本間諸島図)を求めたことが確認できる21。少なくとも明治6(1873)年10月以降にはこのような英国海図の数々がわが国に持ち込まれていたものと推測する。

なお、同水路寮はこの年の初めに『台湾水路誌』、同年2月より琉球諸島の測量を計画・実施、測量成果をもとに11月には『南島水路誌』を刊行、その後は『琉球群島之図』『八重山全島図』など南西諸島方面の海図を刊行している。

『琉球群島之図』22において注目したいのは、その英題を『Between Formosa & Japan LIU KIU and adjacent Islands』(台湾と日本間にある琉球および隣接する諸島図)とする点である。琉球諸島を測量するにあたり水路寮が参考とした英国海図にちなんだ名称とも推測されるが、明治初期にわが国にもたらされた英国海図、水路誌による東アジアの海域情報が与えた影響、とくに南西諸島を中心とする認識の変遷は、尖閣諸島の領土編入経緯を考えるうえでのテーマの1つとなるべき課題と考える。

・図版m:史料編纂所所蔵図より、沖縄本島部分。左側下部に「Chart No.2416」の記載が見られる。琉球諸島をその中心に置いた、英国海図第2416号がこの頃すでに存在していたことをうかがわせる。




1『史料徹底検証 尖閣領有』p47-51、花伝社2015.1、ほか『日中領土問題の起源』花伝社2013.6、など参照

2 「第三百十五号 久米赤島外二島取調之義ニ付上申」、https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B03041152300「1.沖縄県久米赤島、久場島、魚釣島ヘ国標建設ノ件 明治十八年十月」、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03041152300、帝国版図関係雑件(1-4-1-7_001)(外務省外交史料館)、(2024年3/18閲覧)

3 前掲『日中領土問題の起源』p.158-163(石沢兵吾の取調報告抜粋と考察),p.166-170(石沢兵吾の調査報告の抜粋と考察)など参照

4 前掲「第三百十五号 久米赤島外二島取調之義ニ付上申」に添付された別紙石沢兵吾による取調報告

5 10月以降は共同汽船会社と郵便汽船三菱会社の統合により、郵便汽船会社の所属となる

6 「大東島回航」林鶴松、国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/img/3627248 『大東島巡視済ノ件』、公文録・明治十八年・第三十七巻・明治十八年十月・内務省第一(2024年3/15閲覧)

7 「魚釣島外二島巡視取調概略」石沢兵吾、国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/img/2359277 『沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在スル無人島ヘ国標建設ノ件』、公文別録・内務省・明治十五年~明治十八年・第四巻・明治十八年(2024年3/15閲覧)

8 赤門書庫旧蔵地図-15-26、東京大学史料編纂所、正保国琉球国絵図デジタルアーカイブ、Related materialsのページより、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/list/idata/T60/15/26/ (2024年3/15閲覧)

9 石沢兵吾報告にはRaleigh Rock について、その位置が確定されていない旨は記されていないことから、1885年の調査では、1865年以降に位置が確定された修正版を参考としたと考えられる

12 『水路部沿革史』明治10年7月の項末尾(195頁)、https://dl.ndl.go.jp/pid/10304435/1/114 水路部 編『水路部沿革史』明治2-18年,水路部,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-03-15)

13 中央研究院1870年修正図と対照すると、釣魚島博物館図は全体の一部分を切り出していることがうかがえる

14 釣魚島博物館図は、Hoa pin su の箇所が綴じこまれているように見受けられ、2412号史料編纂所図、1262号中央研究院1870年修正図とは様相を異にする。海図の図版集など冊子仕立ての印象を筆者は受ける。実際はどのようなものなのだろうか。

15 インターネット上に公開されている1262号1881年修正版を確認するに、Ykima(Doubtful)の記載が見受けられる。すなわち、1881年頃修正がなされたことがうかがえる。Barry Lawrence Ruderman Antique Maps Inc.のホームページより、https://www.raremaps.com/gallery/detail/43856/hong-kong-to-gulf-of-liau-tung-compiled-from-the-most-recent-british-admiralty のイキマ島部分を参照(2024年3/15閲覧)

16 Raleigh Rockの箇所、ブルロック海軍中佐により1866年確認、の書き込み、1866年以降に位置が確定されたか

17 『地図』第60巻第1号所収、論説「台湾遠征~日清戦争期までに台湾の主要港湾について作製された英国製海図の翻訳(覆版)にみえる地名表記」p.17-35を参照。https://doi.org/10.11212/jjca.60.1_17 (2024年3/15閲覧)

18 『寰瀛水路誌』第1巻(上・下)海軍省水路局編、上巻は1885年刊行、日本本州及び四国・九州・瀬戸内海にわたる海域及び水路情報を収録、下巻は北海道、上巻に含まれなかった本州および九州部分、そして州南諸島として現在の南西諸島部分の海域及び水路情報を収録している

19 『官報』1897年6月10日、水路告示第869号第2205号、https://dl.ndl.go.jp/pid/2947467/1/6、大蔵省印刷局 [編]『官報』1897年06月10日,日本マイクロ写真 ,明治30年. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-03-15)

20 「尖閣列島談」(第2回)黒岩恒、『琉球新報』1900年6月23日3面を参照

21 https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C09111791700 「甲7套大日記 秘史局副申 支那東岸図御買上の儀文書課申出の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09111791700、公文類纂 明治6年 巻23 本省公文 図書部(防衛省防衛研究所)、(2024年3/15閲覧)

22 国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/img.L/3142975 「琉球群島之図」『大日本海岸実測図』(2024年3/15閲覧)