領土・歴史センター

インドネシアの英雄墓地に眠る残留日本兵の話

2023-07-06
林英一(二松学舎大学文学部歴史文化学科准教授)
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林英一准教授(二松学舎大学文学部歴史文化学科)より寄稿いただいた論考を掲載します。なお、論考は執筆者の見解を表明したものです。

2023年6月。インドネシアを公式訪問された天皇皇后両陛下は、カリバタ英雄墓地を訪れ、5本の竹槍をモチーフとした白い中央慰霊碑に供花された。この英雄墓地は1940年代後半のオランダとの独立戦争に殉じた「愛国者」を追悼するため、1954年に南ジャカルタの緑豊かな地域に開設された同国最大の「慰霊の空間」である1。そのなかには残留日本兵28人の墓標もあるのだが、彼らが埋葬されるようになった経緯とはいかなるものだったのか。

インドネシア残留日本兵のうち個人名まで判明しているのは903人2。その多くが、1942年3月から約3年半続いた日本軍のオランダ領東インド占領のために動員された若い下級兵士だった3

彼らが日本に復員しなかった理由は、自発的なものから強制的なものまでさまざまである。たとえば、宮山滋夫上等兵は「インドネシア独立の大義に死す」ため、広岡勇一等兵は「土地勘や現地の言葉ができた」、池上成人兵長、藤山秀雄伍長、本坊高利兵長、山梨茂主計軍曹、高須茂男伍長は「流言飛語を信じた」、中村常五郎伍長は「軍隊生活に嫌気がさした」、志田安雄兵長は上官を殴って「営倉入りを恐れた」、杉山長幹憲兵曹長、田中年夫憲兵軍曹、山口正次憲兵軍曹は「戦犯になって処刑されるのを恐れた」、土岐時治伍長、早川清軍曹、南里勇二等兵、下岡善治一等兵はインドネシア人に「拉致・監禁された」など4。もっとも、こうした残留の動機は一言で片づけられるものではない。たとえば、ジャワ島西部のバンドンで残留した小野盛軍曹の場合は、「無条件降伏は受け入れがたい」との思い、「軍隊内での昇進が遅れていた」、「現役兵である」との自負、「生真面目で責任感が強い」という個人的気質、北海道の農家の三男で「日本に帰っても農地をもらい自活する目途が立たない」ことなどが複合的に関連していた5

一方で、インドネシア側が残留日本兵を受け入れたのはなぜか。そこには日本軍の保有する兵器と人材を求める切実な事情があった。

インドネシアでは1945年8月17日に独立宣言がなされて共和国政府が発足するが、翌月には連合国を代表したイギリス軍が進駐し、各地で武力衝突が起こり、独立戦争に発展する。戦争初期に首都はジャワ島西部のジャカルタから中部のジョクジャカルタに移り、ジャワ島中・東部が主戦場となった。

こうした状況のなかで、正規軍から非正規軍までさまざまな武装勢力が乱立し、日本兵に接触を試みた。たとえば、バリ島で残留した平良定三軍曹は、インドネシア人から「二階級特進させて将校待遇とする」などの条件を提示された。また、スマトラ島北部のアチェで残留した樋口修技術軍曹は、火薬の専門家であったことが災いし、インドネシア人に拉致され、将校から「協力しなければ死刑にする」と脅された6

こうして日本兵側の動機とインドネシア側の思惑が交錯し、ジャワ島西部とスマトラ島北部を中心に大量の残留日本兵が発生した。彼らは日本軍の兵器を修理・改造し、インドネシアの青年たちに軍事訓練を施し、さらにはゲリラ戦の最前線に立つなどして独立戦争に関与したことが戦後の回想録や証言によって語られてきたが、そのことを裏付ける一次資料は皆無で、長らく実証されてこなかった。

ところが、2004年に筆者が小野盛軍曹の「陣中日誌」を発掘したことで、独立戦争中の残留日本兵の実態の一端が明らかになった7

この「陣中日誌」は独立戦争中の1945年12月30日から1948年11月26日の間に書かれたものである。そのなかで小野軍曹は日常と戦闘の様子を赤裸々に綴っていた。それを読み解くと、独立戦争の進展にともなって残留日本兵たちが離合集散を繰り返し、その過程で彼らの役割に変化が生じていたことがわかった。

1945年8月から1949年末まで続いたインドネシア独立戦争は、外交路線と闘争路線を二極軸として展開した。この間、共和国政府とオランダは二度にわたり停戦協定を結ぶも、いずれもオランダの軍事侵攻によって破られ、1948年末にはオランダ軍によって首都ジョクジャカルタが陥落し、スカルノ大統領、ハッタ副大統領が連行されるという危機に瀕した。これに対して共和国側はスマトラ島に亡命政府を樹立し、スディルマン将軍率いる国軍がゲリラ戦で抵抗。国際世論を味方につけて翌年のハーグ協定でオランダから主権移譲された後、1950年8月に現在の単一共和国として再発足した。

1945年12月に日本軍を離隊し、インドネシア軍に身を寄せた小野軍曹は、ジョクジャカルタでアジア主義者・市来龍夫と出会い、彼の思想に傾倒し、「和蘭〔引用者註:オランダ〕ノ圧政ヨリ開放シタ日本ハ黄色人種ノ同アジア民族ダ、兄弟ナリ。アジア平和招来ノ為眞ニ手ヲ取リ合ツテ共戦共死スルノダ」8と誓う。そして市来とともに遊撃戦の参考書を執筆した後、インドネシア正規軍の部隊教育に励むが、戦局が推移するなかで、前線で戦闘指導を行うようになる。「陣中日誌」には「我レ之ヨリ決死隊トナリテ敵後方ノ〔引用者註:日本陸軍製の九二式就機関銃の〕脚持出シニ行カントス」9という記述がある。

しかし、非公式な存在であった彼らは、オランダとの停戦協議中や国軍の再編合理化の際に苦境に陥り、そうした閉塞的状況を打開するために結成されたのが、日本人のみからなる特別ゲリラ隊(PGI)だった。ジャワ島東部の第1師団第2旅団長のR・スラフマッド中佐の下で組織された同隊には、ジャワ島東部に散らばっていた残留日本兵およそ30人が参加した。隊長は吉住留五郎、副隊長は市来。ふたりは戦前にオランダ領東インドに渡り、バタビアの日蘭商業新聞社で働き、国家主義団体・愛国社の岩田愛之助の人脈に連なっていたという旧知の仲で、ほかの残留日本兵よりも年配だった。特別ゲリラ隊は停戦中にオランダ軍の前線基地を攻撃し、停戦協定の破棄を目論んだ。しかし吉住が病死すると内紛が生じて分裂。さらに後継隊長の市来の戦死後は、第4旅団傘下の部隊(PUS18)として再編されてしまう10

その部隊は杉山長幹を隊長、小野盛を副隊長とし、杉山、小野、山野五郎、林源治、酒井富夫、前川辰治、広岡勇、若林、数人のインドネシア人がそれぞれ部下を率いた。1949年2月のバンジャル・パトマンの戦闘ではオランダ軍大尉ら約50人を倒したことが、インドネシア語の「戦闘詳報」に記録されている。これはインドネシアの公式戦史には書かれておらず、特筆すべき戦果であるといえよう11

こうした独立戦争での「活躍」が認められ、杉山、小野、山野、酒井、前川、広岡は独立戦争後にインドネシア軍からゲリラ勲章や在郷軍人証を与えられ、軍人恩給の支給や国軍葬で英雄墓地に埋葬されるといった待遇を得た12。現在、山野と前川はカリバタ英雄墓地に、杉山、小野、酒井、若林は地方の英雄墓地にそれぞれ眠っている13

令和の両陛下のカリバタ英雄墓地参拝は、こうした歴史に光をあてるという意義があったといえる。くしくも上皇さまも即位後初の外遊でカリバタ英雄墓地を訪れ、退位前最後の「慰霊の旅」ではベトナム残留日本兵家族と接見している。今回、両陛下は天皇皇后として初めてインドネシア残留日本兵の子孫と面会された。平成から令和への「慰霊の旅」の継承を通して、日本と東南アジアの友好親善が深まることが期待される。




1 加藤剛「政治的意味空間の変容過程――植民地首都からナショナル・キャピタル」坪内良博編『〈総合的地域研究〉を求めて――東南アジア像を手がかりに』京都大学学術出版会、1999年、223頁。
2 福祉友の会「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声――福祉友の会・200号『月報』抜粋集」自刊、2005年、382頁。
3 少数だが将校、軍属、朝鮮人・台湾人日本兵、民間人で残った者もいることから、「残留日本人」と呼ぶ研究者もいる。
4 林英一『残留日本兵――アジアに生きた一万人の戦後』中央公論新社、2012年、第2章。
5 林英一『残留日本兵の真実――インドネシア独立戦争を戦った男たちの記録』作品社、2007年、第2章。
6 前掲『残留日本兵』第2章。
7 「生きた証し インドネシア独立戦争の日記㊦ 『伝えたい』引き継ぐ願い」『朝日新聞』2005年11月3日付朝刊文化総合面。
8 小野盛著、林英一編・解説『南方軍政関係史料42 インドネシア残留日本兵の社会史――ラフマット・小野盛自叙伝』龍溪書舎、2010年、48頁。
9 前掲『南方軍政関係史料42 インドネシア残留日本兵の社会史』105頁。
10 林英一『東部ジャワの日本人部隊――インドネシア残留日本兵を率いた三人の男』作品社、2009年、第4・5章。
11 前掲『残留日本兵の真実』第6章。「生きた証し インドネシア独立戦争の日記㊤ 決死の日々、克明に」『朝日新聞』2005年11月2日付朝刊文化総合面。
12 1960年代前半にインドネシア国籍を取得するまで、彼らは無国籍状態だった。
13 残留日本兵が1979年に組織した互助団体「福祉友の会」会員のうち、首都以外の地域では英雄墓地よりも一般墓地に埋葬された残留日本兵の方が多かった。