研究レポート

「難民」をどう捉えるべきか

2022-02-22
宮井健志(成蹊大学法学部客員准教授)
  • twitter
  • Facebook

欧州研究会 FY2021-6号

「研究レポート」は、日本国際問題研究所に設置された研究会参加者により執筆され、研究会での発表内容や時事問題等について、タイムリーに発信するものです。「研究レポート」は、執筆者の見解を表明したものです。なお、各研究会は、「研究レポート」とは別途、研究テーマ全般についてとりまとめた「研究報告書」を公表する予定です。

はじめに

欧州において新たな難民危機への警戒感が高まっている。2021年7月から、主に中東地域からの避難民がベラルーシとの国境を経由してリトアニア、ラトビア、ポーランドへと流入した。このベラルーシによる「ハイブリッド攻撃」を前にして、人権保護と安全保障との間で欧州諸国は動揺している。また、緊迫の度を増すウクライナ情勢では、ロシアによる侵攻が現実となれば大規模な難民流出が生じかねない状況にある。

新たな「危機」が予兆される現在、難民を巡る語り口は様々でありえよう。避難民の「武器化」という事態を受けて、地政学的関心により送り込まれた彼らを「難民」とみなすべきかが論争の火種となっている。以前より続くダブリン体制の機能不全を前にして、地域的な難民受け入れ態勢をどう再構築しうるかも喫緊の政治課題である。

難民問題の語り口が様々であるのと同様に、庇護を求める人々の利害も多様である。ある人は一時的な庇護を求め将来的な帰国を期待しているかもしれないし、あるいは新たな安定した構成員資格を求めているのかもしれない。それぞれの避難民の異なる姿を意識するとき、私たちは「難民」をどう捉えるべきか。

本レポートでは、欧州の難民問題というテーマからはやや迂遠ではあるが、「難民」の捉え方を再考してみたい。鍵となるのは、多様な背景をもつ避難民を「難民」という単一のカテゴリとして制度的に理解することの妥当性である。本レポートはこれを批判し、難民問題を国際社会の責任の観点から捉え、背景とニーズに応じた複合的な保護体制を構想する必要性を論じる。

1.「難民とは誰のことか」を考える

1951年の「難民の地位に関する条約」は、難民を「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受けるおそれがある」ために「国籍国の外にいる者」だと定義している。これは最もよく知られた難民の国際的定義であり、また現行実務上でも適用されている定義である。この定義に基づけば、「迫害のおそれ」と「他国に逃れた」という二点を中心に難民性が認定される。

本条約の定義は、長らくその硬直性が批判されてきた。というのも、明白な「迫害」がない人々、例えば自然災害や飢饉から逃れる人々や、また「迫害」を受けても国内に留まる国内避難民は、「難民」として保護する対象ではないと解釈しうるからである。著しい人権侵害や生存の危機から逃れようとする人々を広く「難民」として捉える立場からすると、この定義はたしかに狭い。少なくとも、条約上の「難民」の厳格な定義と、私たちが想定する「難民」の観念との間に乖離があるのは確かである。

乖離が存在する以上、この乖離を埋めることが必要かもしれない。国際人権法学者のアンドリュー・シャックノヴは、難民の定義に関する古典的研究において、概念の不確定性がもたらす問題を指摘した。「政治的な紛争や資源の希少性による問題は部分的なものにすぎない。というのも、難民であること(refugeehood)の意味、原因、管理に関する概念的な混乱が、難民と受入国が抱える不幸と国際的な対立の火種になっているからである」1。あまりに狭く難民を定義すると、明らかに保護が必要な人々を難民の範囲外に置くことになる。逆に、過度に広く定義することも、受け入れにかかる財政負担として維持困難で、難民の国際的地位の信頼性を損ねてしまう。そこで、狭すぎず、広すぎず、我々の納得しうる定義を作る必要が出てくる。シャックノヴ自身は、(1)基本的なニーズが出身国で保護されておらず、(2)ニーズの回復を国際的に求める以外に手段がなく、かつ(3)国際的に援助可能な状況にある人々、という新しい定義を提案した。

2.「難民とは誰のことか」を定義することの難しさ

シャックノヴをはじめ、難民の概念的修正を通して適切な保護範囲を画定しようとする試みは多い。しかし、こうした試みは、避難民ごとの背景やニーズを顧慮する上で困難を抱える。

「難民とは誰のことか」をめぐっては、大きく分けると二つの見方がある。難民を広い意味での避難民とする「人道的」な見方と、難民をあくまで「迫害」によって居住地を追われた人々として狭義に捉える「政治的」な見方である2。両者は鋭く対立している。この二つの見方は、難民性の解釈について相異なる基準を用いており、そもそも単一の概念として統一するのは容易なことではない。二つの見方の中間点は、一方にとって狭く、一方にとって広い範囲のものとならざるを得す、概念定義を統一するには間隙が大きすぎるのである。

この二つの見方は、国際的な難民保護法制の枠組みに当初から矛盾として組み込まれている。もともと1951年の難民条約は、「迫害のおそれ」と「他国に逃れた」という二つの要件の重視から分かるように、政治的難民のみを保護することを目指していた。一方、難民実務を担ってきた国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、より人道主義的な傾きがあり、武力紛争の民間人被害者や国内避難民、自然災害や飢饉によって避難を余儀なくされた人々などを広く保護の対象に含めるべく取り組んできた。ここにUNHCRの人道的な態度を批判する意図は一切ない。問題は、政治的難民のために設計された恒久的保護の体制を前提に、人道的難民にまで単線的に保護範囲を広げることは、制度的に無理があるということにある。

現状の難民保護法制では、「難民」と認定された場合には、難民法や人権法に基づく基本的な権利がパッケージとして認められ、受入国の国民との同一処遇が原則となる。これは、迫害から逃れた人々に恒久的な代理的構成員資格を与えるという目的に相応しており、その典型的な対象は政治的難民である。ところが、広義の避難民がすべて亡命者として構成員資格を求めているわけではない。例えば、貧困や飢饉によって避難民になった人々にまず必要な保護は、十分な栄養や住居の提供であり、受入国で代理的構成員資格を権利として獲得することには必ずしも結びつかない。

難民をフラットな概念として定め、単一の権利パッケージに対応させると、避難民ごとのニーズや背景を適切に顧慮することが難しい。これは、保護すべき避難民の範囲を狭めることを正当化するものではない。逆である。パッケージの保護水準を高く設定すればするほど、各国家としては難民認定を尻込みするインセンティブが働きやすく、認定基準がアドホックに運用される結果、必要な保護が適切な範囲に行き渡らないことが問題なのである。このことは、欧州各国における難民の「押し返し」や、日本における難民受け入れの実態から見て取れよう。この状況を打開するには、難民問題の「捉え方」を再考する必要がある。

3.難民問題の「捉え方」を再考する

難民性をめぐる概念的混乱は、諸国家が難民に対してどう責任を負うかという問題にも関係している。

人道的な見方に基づくと、各国家が避難民に対して負う責任は「慈善」の問題として回収されやすい。よく用いられるアナロジーは、子供が沼で溺れた場合や、道端で通行人が突然倒れた場合に、たとえ通りすがりであっても私たちは助ける努力をしなければならないという道徳的義務である。避難民に対して同じ論理を適用すると、危険や窮乏に苦しむ人々に対して救済の手を差し伸べることは、まともな国家が負うべき人道的な責任だと論じられる。しかし、このように問題を枠づけると、避難民へと庇護を提供する責任は不完全義務となり、義務を履行するかどうかについて国家に裁量を広く認めることになる。命を賭してまで人を助ける義務がないのと同様、難民受け入れは過剰な負担を通じてまで履行すべき義務ではないとして、責任逃れを原理的に許容するのである。

かたや政治的な見方にも問題がある。政治的な見方は、考慮要素が厳格である分、一部の避難民に対しては国家裁量の範囲を限定できるが、保護対象が狭量になりやすい。人道的な見方に含まれる確かな規範は、私たちが避難民に対して負うべき責任の範囲は、必ずしも政治的な「迫害」によるものに限らないということだ。「迫害」にのみ着目し、保護の範囲を狭く解することは、現行制度上は筋が通っていると言い張れても、諸国家が負うべき責任から目を背けるものでしかない。

おそらく私たちが追求すべきは、二つの対立する見方を無理に「統一」するのではなく、一貫した見方のもとで適切に「配置」することであろう。つまり、広義の避難民と目される人々が、どんな要因で避難し、何を求めているのかに着目し、それぞれのニーズに応じて保護を複合的に提供する枠組みを考えるべきなのである。

この点で参考になるのが、政治哲学者のデイヴィッド・オーウェンが近著で提唱する「国際正義」に基づく第三の構想である3。オーウェンは、国際国家システムを、一方では国家主権と不介入、他方では普遍的人権という二重の規範に基づいた秩序とみなす。この秩序は、人権保護の任務が領土内の人口に責任をもつ各国家に割り当てられた、グローバル・ガバナンスのシステムとして理解される。この秩序の正統性は、各国家が人権保護の任務を全うできることに存しており、もしある国家がこの任務に失敗する場合には、国際秩序自体の正統性が問われてくる。ここからオーウェンは、人権保護が行き渡らない避難民を救済することは、人道的責任とも、政治的責任とも異なる、「正統性の修復メカニズム」として国際社会全体で責任を負うべきものだと再定位する4

オーウェンの議論の興味深い点は、「正統性を修復」する方式を、保護内容に応じて区分したことである5。具体的には、構成員資格自体の回復を要する「庇護(asylum)」、基本的な安全・自由・福祉に対する脅威から保護する「聖域(sanctuary)」、飢饉や自然災害などの事態に対して安全地帯を提供する「待避(refuge)」の三つである。オーウェンは、これら三つの救済策を組み合わせながら、各国家が国際社会の一員として負う一般的な責任と、地政学的関係や社会的紐帯を通じて負う特別的・個別的な責任とを複合的に履行していく難民保護構想を提示している。

もちろんオーウェンの提案は一案にすぎず、避難民のニーズをどう区分し、各国家にどう責任を割り当てるかという問いに魔法の答えがあるわけではない。しかし、「難民とは誰のことか」をめぐる論争に終結の兆しがないなか、必要な人々へと公正に保護を提供するための一つの捉え方として参照する価値は大きい。

おわりに

難民問題は、きわめて論争的なトピックである。その論争性の原因の一つは、難民概念の不確定性にある。しかし、「迫害」中心の定義と人道的な定義との間の乖離を概念拡張によって解消しても、結局のところ論争の解決には繋がりそうもない。問題は、避難民のプロファイルの多様性を前にしながら、人道的配慮を梃子に単一のパッケージで対処することが制度的に無理筋なことにあるからである。

たとえ政治戦略によって「武器化」されようと、避難民が自由と安全を求める存在である点に変わりはない。そうした人々の誰が「真の難民か」を問うことは、不毛な神学論争に帰結し、恣意的な二者択一を強いることになりかねない。いかなる区分も究極的には恣意性を免れないとはいえ、避難民のニーズに向き合いながら、複合的な保護体制を作り上げていくことは、地政学的な関心をこえた世界的課題である。

日本もまた国際社会の一員としてこの課題に向き合う必要がある。日本の難民認定率の低さの要因の一つに、条約難民の基準に適合しない申請が多く含まれることは事実としてある。しかし、条約に適合しないことの一点張りで逃げを打つことも、責任ある国家のあり方とは言えない。難民受け入れは人道的関心に基づく「慈善」であるという理解を克服し、いかにして国際正義の観点から一国家としての責任を果たしていくかが問われている。

(2022年2月7日脱稿)




1 Andrew E. Shacknove, "Who Is a Refugee?," Ethics 95, no. 2 (1985): 276.
2 Matthew J. Gibney, "The Ethics of Refugees," Philosophy Compass 13, no. 10 (2018): e12521; David Owen, What Do We Owe to Refugees? (Cambridge: Polity, 2020).
3 Owen, What Do We Owe to Refugees?
4 Ibid., 47.
5 Ibid., chap. 3.