米韓FTAが締結されているにもかかわらず、トランプ政権は関税措置によって韓国の対米投資を迫り、韓国外交は大きな試練に直面している。米中対立が激化するなか、トランプの対外政策は韓国に新たなリスクをもたらしている。これに対し、李在明政権は「実用外交」を掲げ、日韓・米韓・中韓関係の再調整に取り組んでいる。本稿では、発足(2025年6月4日)から100日あまりを経た李在明政権の外交・安全保障政策の現状と課題を検討する。
1.理念外交からの脱却―文在寅外交の教訓
李在明大統領は、前政権(尹錫悦政権)期に見られた「理念外交」からの転換を図り、政策の一貫性を重視している。この傾向は、対日政策において顕著に表れている。野党代表時代、強硬な対日発言を繰り返したことで知られる李在明大統領であるが、8月15日の「光復節」演説では、日本を「経済発展に不可欠なパートナー」と位置づけ、「未来志向的な共生と協力」を呼びかけた。また同月21日に報道された『読売新聞』とのインタビューでは、「国家の約束を覆すのは望ましくない」としたうえで、「(国家としての)政策の一貫性を考えなくてはならない」と述べ、前政権期の対日政策との連続性を重視する姿勢を示した。
さらに、8月23日の石破茂首相との首脳会談(於東京)では、1965年の日韓国交正常化および1998年の日韓共同宣言を基盤として、戦略的意思疎通を強化することを確認した。特に、①経済・通商秩序における協力、②安全保障および経済安全保障分野での意思疎通、③未来産業分野における協力拡大の3点で合意した。また、歴史問題についても、慰安婦合意(2015年)や徴用工判決に対する第三者弁済(2023年)といった既存の枠組みを前提とし、感情的対立よりも戦略課題の解決を優先する方針を明確にした。
李政権が歴史問題に対してこのような立場を取る背景には、韓国社会における歴史問題の位置づけの変化があると考えられる。保守政権によって慰安婦合意や第三者弁済が実施され、一定の整理が進んだことで、市民運動の勢いが弱まり、政府が外交的裁量を発揮しやすい環境が整った。その結果、李政権は進歩政権でありながらも、歴史問題よりも戦略的利益を優先する実用外交を展開することが可能になったのである。
もう一つの要因は、文在寅政権期の外交的教訓である。文政権の「朝鮮半島平和プロセス」は、日本との歴史摩擦が貿易や安全保障の分野にまで拡大し、成果を上げることができなかった。李政権はこうした教訓を踏まえ、尹政権下で回復された日韓関係を維持・強化する政策を展開している。
さらに、日韓関係を安定させることが対米関係の強化を可能にすると判断した側面もある。李大統領は8月25日の米韓首脳会談(於ワシントンDC)で、慰安婦問題をめぐる日韓対立を懸念するトランプ大統領に対し、「トランプ大統領が韓米日三国の協力を非常に重視しているので、私は大統領に会う前に日本を訪問し、大統領が心配するような問題を整理してきた」と述べた。韓国が日本との協調を通じて地域の安定に寄与する姿勢を示したことは、ワシントンおよび東京の双方における李政権への信頼獲得につながったといえよう。
2.米韓関係の動揺
(1)米国の製造業再建における韓国
7月30日に妥結した米韓関税交渉では、相互関税を25%から15%に引き下げることに加え、自動車関税も同水準に引き下げる代わりに、韓国が総額3,500億ドルの対米投資を約束した。3,500億ドルのうち、1,500億ドルは米国造船業の育成を目的とする「MASGAプロジェクト(Make America Shipbuilding Great Again)」に充当され、残りの2,000億ドルは投資ファンドの助成を通じて、半導体、原子力発電、二次電池など韓国企業が競争力を有する分野に投資されることとなった。
8月25日に行われた米韓首脳会談では、両国が製造業復活のパートナーとして協力していく方針を確認した。トランプ大統領は、とりわけ韓国の造船業に強い期待を示した。中国を排除したサプライチェーンを構築し、中国に後れを取っている軍艦の生産能力を向上させるためには、韓国との協力が不可欠であると判断したためであろう。
韓国のHanwha Ocean社は、2024年12月に米国のフィリー造船所(ペンシルベニア州フィラデルフィア)を買収しただけでなく、すでに米海軍艦艇(貨物艦)の補修・整備を行い、米海軍から高い評価を受けている。トランプ大統領は就任後、韓国の造船技術を高く評価し、老朽化した米海軍艦艇の補修・整備を韓国企業に委託することに関心を寄せた。
首脳会談の翌日、李在明大統領はフィリー造船所を視察した際、「(ここで)建造された軍艦が大韓民国の国民を救い出した」と述べ、朝鮮戦争期における米国軍艦の役割を称えた。そして、「これからは大韓民国の造船業が米国の海洋安全保障を強化し、米国造船業の復活に寄与する」と強調し、米国造船産業への参入が単なる経済利益を超えた戦略的意義を持つことを印象づけた。李大統領は、こうした協力を通じて米韓同盟が「安保同盟・経済同盟・技術同盟が融合した未来型包括的戦略同盟」へと発展していくと述べ、その意義を強調した。
(2)安全保障懸案への対応
他方、李在明大統領は「朝鮮半島の平和を築き上げられるのはトランプ大統領しかいない」と持ち上げ、「トランプ大統領は"Peace maker"となり、私は"Pace maker"となる」と述べた。これは、文在寅政権が唱えた韓国主導の「運転者論」とは一線を画す発言である。韓国側の政策によって南北関係を動かすことが困難である現状を踏まえ、まずは米朝関係の改善を通じて突破口を開こうとしているのであろう。
一方、安全保障分野における懸案は先送りされた。在韓米軍の「戦略的柔軟性」(在韓米軍が韓国防衛に固定せず、台湾有事など地域紛争にも展開できるようにする方針)をめぐる認識のずれが浮き彫りになったためである。ルビオ国務長官は首脳会談の準備段階から、韓国に対し「戦略的柔軟性」を求めており、在韓米軍の役割をめぐる協議が続けられた。李大統領は訪米途上の機内で、「在韓米軍の未来型戦略化は韓国にとっても必要であるが、在韓米軍の戦略的柔軟性については、韓国の立場から容易に同意することはできない」と述べ、米韓双方の立場の隔たりが依然として埋められていないことを示唆した。台湾有事の際、在韓米軍が介入することで韓国が巻き込まれる可能性を何よりも懸念しているである。
8月25日に戦略国際問題研究所(CSIS)での政策演説において、李大統領は、米韓関係を「安全保障と経済の融合」という時代に適応させるため、先端技術同盟として再構築する方針を表明した。さらに、関税合意に伴う韓国の対米投資が両国協力の牽引力となると強調し、安全保障の分野でも韓国がより主導的な役割を担うと明言した。そのうえで、米国が求めている国防費の増額に応じる意向を示した。
また、同演説で李大統領が核拡散防止条約(NPT)体制を遵守し、非核化公約を徹底して守ると明言したことも注目すべき点である。米韓両国は、米韓原子力協定の改定を協議する方針を決定しているが、李大統領は、その改定の目的が潜在的核開発能力の獲得にあるのではなく、使用済み燃料の再処理を通じて核燃料を確保するという産業的・環境的意義にあることを強調しようとしたのであろう。
このように李大統領は、トランプ政権の要求に応じつつも、韓国が強みを持つ産業分野における協力を通じて、安全保障における韓国の役割と貢献を明確化したのである。
(3) 関税交渉の膠着―合意を迫る米国vs.抵抗する韓国
米韓首脳会談は成功裏に終わったものの、その後、具体的な合意形成は膠着状態に陥った。米国が投資の方法だけでなく、投資項目の選定から利益配分に至るまでの全てに対して、自国主導を主張したためである。さらに、9月4日に日米が覚書を交わして以降、米国のラトニック通商代表は、当初韓国が約束していた3,500億ドルの投資に対し、日本と同様に全額を現金で実施するよう韓国側に要求するようになったからである。
これに対し、李在明大統領は9月12日の就任100日記者会見で、①裏面合意は行わない、②国益に反する交渉はしない、③合理性と公正性に反する交渉は受け入れない、という三原則を提示した。というのも、3,500億ドルは韓国の外貨準備高の84%に相当する金額であり、実現可能性が極めて低いのである。大統領府政策室長も「韓国が外貨市場で1年間に調達できる資金は200〜300億ドルにすぎない」と述べ、米国の要求に応じられない理由を説明した。現在、韓国は米韓通貨スワップを米国の要求に応じるための条件として提案し、合意形成の余地を残しつつ交渉を継続している。
こうした韓国の慎重な姿勢に拍車をかけたのが、現代・LGの米工場をめぐる事件である。9月4日、米移民・関税執行局(ICE)は、ジョージア州で建設中の現代・LGの合弁工場を急襲し、設備設置を担当していた韓国人技術者たちを拘束した。トランプ政権内では、製造業復活に向けて外国投資を促進する政策と、反移民・反グローバル化政策が並行して進められており、政策間の整合性の欠如が顕在化した。その結果、この事件は米国内の政策不協和を象徴する事例となった。
トランプ大統領は「技術者は帰国せず、米国労働者を訓練させるべきだ」と述べる一方で、「外国企業が米国への投資を恐れるようなことがあってはならない」として、事態の沈静化を図った。しかし、ラトニック商務長官は9月12日、「韓国が貿易協定に署名しない場合、関税を再び25%に戻す」と発言し、圧力を強めた。トランプ政権内部で統一的なメッセージが出せない中、李在明大統領は「企業としては直接投資をためらうだろう」と述べ、対米投資に慎重な姿勢を示した。
韓国の趙顕外交部長官は9月16日、「今の米国は、同盟として協力してきた頃の米国とは違う」と異例の公開批判を行い、危機感を露わにした。また、李大統領は『TIME』誌のインタビューで、3,500億ドルすべてを直接投資として拠出すれば、韓国は1997年のようなIMF経済危機に陥り、自身は弾劾されるだろうと語った。政府として危機感を公に発信することで、米国の要求に抵抗する外交姿勢への国内世論の支持を得ようとしたのである。
実際、現代・LG工場事件は韓国社会における対米不信感を増幅させ、各種世論調査では約80%が「交渉が遅れても米国の要求を受け入れるべきではない」と回答した。韓国では、この事件が米国への信頼を損なう象徴的な出来事として受け止められた。
こうした対米不信感は、安全保障分野にまで波及するおそれがある。実際、9月22日、李在明大統領は自身のSNSにおいて、「世界第5位の軍事力を持ち、経済力でも北朝鮮を圧倒しているにもかかわらず、外国軍の存在なしには自国防衛ができないと考えるのは屈従的な思考である」と述べ、「強力な自律的自主国防」が当面の最重要課題であると強調した。続く10月1日の国軍の日記念式典の演説でも、「各自図生(各自が生きる道を模索する)の時代に突入している」としたうえで、「誰にも依存せず、我々自身の力をさらに強化しなければならない」と訴えた。関税・投資問題が安全保障問題と結びつくことで、米韓関係は一層調整の難しい局面に入っている。いわゆる「トランプリスク」によって、李在明政権の掲げる実用外交は早くも試練に直面しているのである。
3.外交の多角化―中韓関係の再調整
李在明政権は、米中対立と「トランプリスク」という二重の難局の中で、外交の多角化を模索している。これまで韓国外交が語る際に使われてきた「安米経中」(安全保障は米国、経済は中国に依存する)という機会的なバランス論を見直し、より柔軟かつ現実的な関係調整へと舵を切り始めた。李大統領は米国に向かう機内(8月24日)で、「韓国外交の根幹は米韓同盟にあります。価値・秩序・システムを共有する日米韓の安全保障・経済協力が重要です」と述べたうえで、「外交において親中・嫌中という二元論は存在しません。中国と絶縁しないことを親中と呼ぶなら、その意味での親中は必要です。」と発言した。
前掲のCSISでの政策演説でも、質疑応答の中で「米国の基本的な政策に反する行動や判断はできない状況にあるが、中国とは地理的に極めて近い国であり、不可避な関係をよく管理していく程度で関係を維持する必要がある」と述べた。米韓同盟を基軸とする立場を明確にしながらも、中国との対立を避け、安定的な関係を維持する必要性に言及したのである。
李政権は、日韓・米韓首脳外交を行う同時期に、中国に特使団を派遣した。派遣時期が中韓国交正常化33周年に重なっていたこともあり、中韓関係を軽視しない姿勢を示す狙いがあったとみられる。特使団のメンバーには、1992年に中韓国交正常化を実現した盧泰愚元大統領の長男、盧載憲氏が含まれていた。盧載憲氏は中国との民間交流に尽力してきた人物であり、特使団活動終了後、駐中国大使に内定している。中国側からも、彼の起用を歓迎する論評が発表された。韓国では、この人事が盧泰愚政権の「北方外交」の遺産を李在明政権の「実用外交」へと継承する象徴的な動きであると評価されている。さらに、保守系の象徴的政治家を登用することで、韓国内の反中世論に一定の配慮を示しつつ、超党派的な対中政策の推進にも資すると期待されている。
こうした流れを受け、趙顕外交部長官は訪中し、10月31日に慶州で開催予定のAPEC首脳会議に向けて中国側との調整を本格化させた。最大の焦点は習近平国家主席の出席であり、趙長官はその実現を直接要請したとされる。李大統領は、国内で発生した嫌中デモを、「表現の自由を超えた乱暴な行為」として位置づけ、警察に取り締まりの方法を検討するよう指示するなど、習主席の訪韓実現に向けた環境整備を進めている。
米中対立とトランプリスクを抱えるなかで開催されるAPEC首脳会議は、韓国外交の多角化を試す重要な舞台となる。慶州で米中首脳が直接向き合うようになれば、地域の緊張緩和に向けた糸口を探る契機となる。また、米韓関税交渉においても、APEC首脳会議は合意形成の期限として位置づけられている。
現在、李在明政権内では、CPTPP(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)加盟の再検討が進められている。米中対立の激化とトランプリスクがもたらす不確実性を低減するためである。この観点から、日本との関係強化がいっそう重視されることになるであろう。今後、李在明政権の国益中心の実用外交が、同盟管理の観点から、関税・投資の妥協点をいかに見出し、中韓関係の再調整を実現していくかが注目される。
(2025年10月20日校了)