研究レポート

欧州連合(EU)とベラルーシ(前編)

2021-03-10
東野篤子(筑波大学人文社会系准教授)
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「欧州」研究会 第4号

「研究レポート」は、日本国際問題研究所に設置された研究会参加者により執筆され、研究会での発表内容や時事問題等について、タイムリーに発信するものです。「研究レポート」は、執筆者の見解を表明したものです。

はじめに

ベラルーシはEUの欧州近隣諸国政策(ENP)および東方パートナーシップ(EaP)の対象となってきたが1、同国とEUとの関係構築は、他のEaP対象諸国と比べて大きく立ち後れてきた。その最大の理由は同国におけるルカシェンコ政権の強権化であり、同政権による集会の自由、基本的労働基準、発言やメディアの自由に対する抑圧であった。

その一方で、EUの同国に対する政策は一貫性を欠くものであり、制裁と関係強化を場当たり的に繰り返してきた側面がある。2020年8月の大統領選挙の大混乱と、ルカシェンコ政権による反体制派デモ参加者らへの抑圧・拘束は、現在もEUとベラルーシとの関係にさらなる困難を突きつけている。

本稿では、EUとベラルーシとの関係について概観する。前編では、ソ連崩壊後から2020年8月の大統領選実施前までのEU・ベラルーシ関係について振り返ることとする。

1990年代:パートナーシップ・協力協定も不在

ソ連解体後、EUは旧ソ連新独立諸国(NIS)諸国の多くと二国間関係の構築を進めた。ロシアをはじめとしたNIS諸国とのあいだでは、1995年以降パートナーシップ・協力協定(PCA)が締結され、今でも8カ国との間で適用されている2。さらに、2009年にEaPの対象となった諸国のうち、ウクライナ、モルドバ、ジョージアに関しては、PCAが2017年に連合協定(AA)へと格上げされ、PCAよりも広範な経済関係をEUとのあいだで構築している。

EUとベラルーシとのあいだでもPCA締結のための交渉が行われ、1995年3月にはいったん署名に至っていた。しかし多くのEU加盟国は同国で深刻な人権抑圧や民主主義の退行がみられたことを問題視し、PCA締結に反対した。結局EU理事会の一般理事会会合は1997年に、PCA締結を凍結することを決定した3。このため現在に至っても、NIS諸国のなかで唯一、ECがソ連との間で1989年に締結した通商・協力協定がベラルーシ・EU間に継承されるという変則的な適用が行われている4。なお同国は、1995年にNATOの平和のためのパートナーシップ(PfP)に参加し、1998年にはNATO代表部も設置している。

ベラルーシを巡るEUのジレンマ

2000年代に入ると、EUとベラルーシとの関係は一層矛盾に満ちたものとなった。2004年の第5次拡大でポーランド、リトアニア、ラトビアを含む10カ国がEUに加盟したことにより、ベラルーシはEUと直接国境を接するようになった。このため、EUはこうした新しい隣国との間で新たな関係を構築する必要性に迫られた。2002年から2003年にかけて、当時のプローディ欧州委員長のイニシアティブで発展した「ワイダー・ヨーロッパ」構想(ENPの前身となるもの)は、その重要な対象諸国として、ウクライナ、モルドバ、ベラルーシの「西NIS諸国」を挙げていた5。しかし既述の通り、すでにこの段階でベラルーシとEUとの関係構築は、他のすべてのNIS諸国に大きく後れをとっていた。

欧州委員会が2003年に公表した「ワイダー・ヨーロッパ」政策文書では、EUがベラルーシとの関係を強化する上で直面しうるジレンマについて、率直に述べられていた。EUが同国の状況を黙認すれば、困難に直面しているベラルーシの国民に手を差し伸べることが出来なくなる。一方で同国の政権との関係を強化すれば、EUの諸価値とは合致しないルカシェンコ政権の諸政策を支援しているかのようなシグナルを送ってしまうリスクが生じる、というものであった。EUは結局、同文書ではこの難問に明確な結論を出さず、2004年の同国での総選挙が自由かつ公正なものとなるよう働きかけ、それが達成されたら同国をEUの近隣諸国政策の中に統合する、ただしその際にEUの諸価値について妥協することはしない、という暫定的な目標を導き出している6。しかし結局その後約20年近くが経過しても、EUは上記のジレンマを解消することなく、現在に至っている。

2000年代:包摂と制裁の交錯

ベラルーシは他の旧ソ連諸国および地中海諸国とともに、EUの近隣諸国政策の枠組みに入ることになったが、同国はENPの対象諸国の中でも特異な地位を占めることになる。その最大の理由は、同国がENPの本格始動とほぼ同時に、EUの制裁の対象となったからである。EUは2004年、同国の政府高官4名に対して制裁を発動した。1999年および2000年に、4名の人物(野党の政治家2名、ビジネスマン1名、ジャーナリスト1名)が行方不明になった事件との関係が疑われたためであった。さらにEUは、2010年12月の同国の大統領選においても野党勢力や不正選挙に抗議するデモ活動を弾圧したことを問題視し、翌年1月にはルカシェンコ大統領を含む130人以上のベラルーシ高官に対する制裁を導入した。

一方、EUは2008年以降、上記の制裁と並行するかたちで同国との関係構築も進めている。2008年3月には初めて、駐ベラルーシ欧州委員会代表部が設置された(2009年12月1日にリスボン条約が発効したことに伴い、駐ベラルーシEU代表部に改称)7。また、2008年8月に勃発したロシア・ジョージア戦争は、EUとロシアとの狭間に位置する近隣諸国との関係構築の必要性をEUに再認識させるものとなり、EaP策定の大きな推進力となった。ベラルーシはウクライナ、ジョージア、モルドバ、アゼルバイジャン、アルメニアとともにEaPに参加することとなる。しかしこのEaPの枠組みの中でも、ベラルーシがもっともEUとの関係構築に関心を示さない国であることには大きな変化はなかった。

この一方でEUの対ベラルーシ観は、同戦争をきっかけとして好意的なものに転換していたという指摘がある。すなわちEUは、ベラルーシがロシアに同調して南オセチアとアブハジアの国家承認を行うのではないかと警戒し、ルカシェンコ政権に対して国家承認を行わないよう働きかけていた。結果的に同政権は、当時の予測に反して南オセチアとアブハジアの国家承認を行わなかった8。同政権のこの選択が、どの程度EUからの働きかけの成果であったのかについては慎重に判断する必要があろうが、ともあれEUはこれを好意的に受け止め、ベラルーシとの関係改善により積極姿勢を示すようになったという。

2010年代:関係改善の加速

EUとベラルーシとの関係は、2010年代半ば以降、目に見えて改善の方向へ向かっていく。とりわけ、ルカシェンコが連続5期目となる大統領に就任した2015年10月以降、その傾向は顕著となっていった。

 大統領選に先立つ2015年8月22日、ルカシェンコ政権は拘束していたすべての政治犯の釈放を決定した。この釈放をEUは、「ポジティブな転換点」となったと評価した9。一方で同年10月11日の大統領選挙は、その前の2010年の同選挙における深刻な状況よりも若干改善されたとはいえ、OSCEからは「国際基準を満たしていない」との判断が示された。しかしOSCEによるネガティブな評価にもかかわらず、EUは同選挙が「大きな問題なく実施された」と評価し10、同年10月19日には、170名に対して実施していた資産凍結およびEUへの渡航禁止およびベラルーシの3企業に対して実施していた資産凍結を、2016年2月まで停止することを決定した(ただし政府高官4名への制裁と武器禁輸は継続された)。EUはこの背景として、同国における政治情勢の改善と、「EU・ベラルーシ関係の改善」があったと説明していた11。また2015年には「EU・ベラルーシ人権対話」が開始され、同国における人権状況の改善や、死刑廃止問題などが協議されていた。同枠組みは2019年6月まで継続されていた。

このようななかでEUは、2016年2月15日に、EUの対ベラルーシ政策に関する理事会決定を採択した12。この理事会決定は、基本的自由、法の支配、人権等といったEUの基本的価値の実現をベラルーシ側に求めながら、積極的に関係構築を図るというものであり、2020年10月に改定がなされるまでの4年間、EUの対ベラルーシ政策の基本となった。これに基づいて、ベラルーシのWTO加盟支援、欧州投資銀行(EIB)や欧州復興開発銀行(EBRD)を通じた支援、年2回のハイレベル会合であるEU・ベラルーシ調整グループの設立、両者のバイラテラルな関係構築について交渉するEU・ベラルーシ間のパートナーシップ・プライオリティズ(PPs)の開始など、EU・ベラルーシ関係は一気に活気づいた。大規模な財政支援も開始され、2016年以降毎年約3億ユーロが提供された。さらに2020年1月にはベラルーシに対するビザ発給要件の緩和で合意し、7月1日には協定が発効した。

EUがこのように2016年以降、従来の制裁を緩和し、同国との関係構築に舵を切った理由は複数存在すると考えられる。まず、従来の制裁が成果に乏しいものであったため13、EU内部では制裁よりも積極的な関係構築を行うことを通じてベラルーシの国内状況の変革に貢献しうるとの見方が出ていた可能性がある。

また、ベラルーシがウクライナ危機において一定の存在感を示したことも見逃せない。ウクライナ危機勃発以降、ベラルーシ当局はドイツやフランス、欧州委員会と相次いで接触し、事態を巡って協議を重ねていたとされる14。さらに、和平合意であるミンスクI合意(2014年9月)およびミンスクII合意(2015年2月)の双方で、ベラルーシは和平交渉の舞台を提供していた。もちろんこのとき、ベラルーシ政府はなんらの仲介的な役割を果たしたわけではなく、あくまで中立の立場を貫いていた。しかし、ロシアとウクライナが激しく対立する中、双方にとって受け入れ可能な交渉の場がひとまずミンスクに設定された意義は少なくなかったのである。

これに加え重要な要因としては、これまでの関係構築の過程において、ベラルーシがEU加盟への関心を「示さなかった」ことが挙げられる。非EU加盟国が、加盟準備も十分に整わない状況で、繰り返しEU加盟希望について言及し、ときには一足飛びに正式加盟申請に向けて動きだしてしまうという事例は、EU拡大の歴史において繰り返し見られてきたものであった。準備の整わない加盟候補国が一方的に加盟希望を強く表明する場合には、加盟準備をまずは整えることを優先するよう求めるEUとの間で主張が対立し、両者間の関係がむしろ悪化しかねない場合もある。しかしこの点ベラルーシは、2016年以降EUとの関係を地道に構築しながらも、加盟希望を全く表明してこなかった。このため加盟問題だけに限定するのであれば、ベラルーシはEUにとって、関係強化にはある程度前向きではあるが加盟希望を有しているわけではない、いわばつきあいやすいパートナーであったともいえる。

大統領選前夜

このようなEUによるベラルーシへの接近傾向は、2020年8月9日の大統領選挙直前まで継続していた。もちろん、同国において基本的自由、法の支配、人権の尊重など、様々な問題が未解決のまま残されているという認識はEU内部で共有されていた。2019年に実施された議会選挙は、民主主義の諸要件を満たしていないとしてOSCEが批判しており、EUも同選挙は同国の民主化プロセスにおける「失われた機会」であったと非難していた15。しかし同時にEUは、ようやく訪れたベラルーシとの関係構築の機会を最大限に活用することを優先し、むしろEUの関与を続けることによって、同国の民主化や開放が進展することを期待した。

しかしコロナ禍は、EUを中心とした欧州の諸機関のベラルーシに対するコミットメントを弱める結果となった。ベラルーシ当局は6月まで、OSCEによる選挙監視を受け入れる意思を示していたし、OSCE側も従来から、同国における選挙の問題点は繰り返し指摘しており、選挙監視の必要性は疑う余地がなかったはずである。しかし最終的にOSCEは、コロナ禍を原因として大統領選挙への選挙監視団の派遣を断念することになる16。こうして8月9日の大統領選挙は、ベラルーシに対するEUや国際社会の監視の眼が大きく緩んだ状態で実施されることになるのである。

(後編に続く)

(2021年2月25日脱稿)




1 欧州共同体(EC)はマーストリヒト条約の発効に伴い、EUと称されるようになったが、本稿ではすべてEUで統一する。