研究レポート

コロナ危機で明らかとなったグローバル・ヘルス・ガバナンスの課題

2020-09-04
詫摩佳代(東京都立大学教授)
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「地球規模課題」研究会 第2号

「研究レポート」は、日本国際問題研究所に設置された研究会参加者により執筆され、研究会での発表内容や時事問題等について、タイムリーに発信するものです。「研究レポート」は、執筆者の見解を表明したものです。

はじめに

2020年7月7日、アメリカのトランプ大統領は国連に対し、正式に世界保健機関(WHO)を脱退すると通告した。トランプ大統領は4月以降、WHOに対する批判的な姿勢を貫いてきた。4月初旬にはWHOが「基本的な義務を果たさなかった」、「中国寄りである」として拠出を停止すると発表、5月末にはトランプ政権が要求した改革が実行されていないとして「WHOとの関係を終わらせる」と宣言していた。本稿では以上のようなWHO批判を読み解くことで問題の本質を見極め、アメリカ不在の中で、保健協力が抱える喫緊の課題にいかにアプローチしていくべきかを考えていきたい。

中国への特別な配慮?

WHO批判は大まかに「中国寄り」そして「義務を果たさなかった」という2点に集約できよう。まず「中国寄り」、「中立ではない」という批判についてだが、そのような批判の原点となったのがテドロス事務局長の中国への対応であった。1月28日にテドロス事務局長が訪中、習近平国家主席と会談を行い、「中国の力強い措置が世界を敬服させている」と述べ、その対応を称賛した。感染が広がりつつある中で中国の対応を称賛したこと、また1月22-23日の第一回WHO専門家会合の際、緊急事態宣言を見送ったこと、さらに渡航禁止勧告を出さなかったことなどが中国寄りだと批判されてきた。

テドロス事務局長が中国に何らかの特別な配慮を行ったことは間違いないだろう。他方、それが巷で言われているように、中国に対する忖度であったのか否かは、確たる証拠を基づき検証される必要があるだろう。渡航禁止勧告を出さなかったのは、2005年以降のWHOの慣例であり、2014年エボラ出血熱が流行した際も西アフリカ行きの飛行機を見合わせる必要はないとWHOは主張し続けた。2003年SARSの際、WHOはカナダと中国に渡航禁止勧告を出し、当該国から非難を浴びた。この経験から2005年の国際保健規則改定の際、WHOの勧告には国際交通への阻害を最小限に抑える必要があるという規定が付け加わったためだ。

また、公の場で中国を称賛するというテドロス事務局長の行動は極めて外交色の強い、表面的な対応であったということにも注意が必要だ。そのような対応とは裏腹に、WHO内部では必要な情報を中国から入手できないことに苛立ちを募らせていた。SARSの時、当時のWHO事務局長が中国の対応を批判、中国とのコミュニケーションに支障を来した経験が思い起こされ、だからこそ批判ではなく、称賛することで中国とのコミュニケーションを図ろうという思いが存在したのである。

但し、いかなる理由であれ、中国に特別の配慮を行うことにはもう少し慎重さが必要だっただろう。そのような行動が「ウイルスは中国で封じ込められている」という誤ったメッセージを国際社会に与えることになったからである。また、米中が対立している状況下で中国に特別の配慮を行うことで、アメリカがいかなる反応を返してくるかということも予測するべきであった。冷戦の最中に展開された天然痘根絶事業では米ソのワクチン、資金、人員など様々なリソースが活用されたが、ワクチンの品質一つをとってみてもアメリカの優位が顕著であった。そのためWHOはソ連のワクチンが品質テストに合格しなかった際、根絶チームのディレクターにアメリカ人が就任した際、度々モスクワに赴き、ソ連の機嫌を損ねないように細心の注意を払った。国際保健協力は国際政治の影響を免れ得ないだけに、政争の火種とならないよう、事務局長の細やかな配慮が必要となるのである。

義務を果たさなかった?

WHOに対する第二の批判は「基本的な義務を果たさなかった」というものである。WHO憲章によれば、WHOの義務とは健康に関する様々な基準を設定すること、必要な国に支援を行ったり、支援のための様々な協力を調整することである。感染症対応に関しては必要な情報を集め、状況を評価し、適切な勧告を行うことがその義務である。WHOは1月30日に専門家会合を招集して「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」であると宣言し、2月3日には国際社会に向けて対応のためのガイドラインを発表、3月11日には「パンデミックの様相をなしている」と発表した。その後も連日ブリーフィングを行い、5月末にはワクチン、治療薬、診断ツールを国際的に共有するためのイニシアティブを立ち上げた。基本的な義務は果たしてきたのである。

むしろ今回明らかになったのは「できることをやっていない」不作為の現状というより、「できることが限られている」という現状であった。上述の通り、WHOは保健協力の情報塔として機能しつつ、各国に必要な指針を与え、連携を促したり、協力に向けた調整をその任務とするが、いずれも強制力は伴わず、加盟国の自発的な協力があって初めて機能しうる。例えば感染症対応の国際条約である国際保健規則には、各国がその領域内で国際的拡大をもたらすおそれのある公衆衛生リスクが確認された場合には、24時間以内にWHOに通報するように義務付けられている。しかし現状ではその義務を多くの国が適切に果たせずにいる。WHOがより積極的に情報を収集し、発生が疑われる国に立ち入って調査するということができていれば、少しは違ったのかもしれない。現状ではそのような権限は持たず、発生国が自発的に申告する情報に依拠するよりほかないのである。WHOが発生国・中国に特別な配慮を行ったことは、このような限界が招いた一つの帰結でもあった。

どのように補強していくべきか?

それではこのような各種問題点をいかに是正していくべきだろうか?喫緊の課題としては国際保健規則の改定によって、WHOができることを増やしていくというのが現実的な処方箋であろう。国際保健規則は国際環境の変動に応じて度々改定されてきた。1981年の改定では、前年に根絶が宣言された天然痘がその対象から外されたし、2005年の改定では9・11同時多発テロの経験を踏まえ、生物細菌兵器を用いたテロを視野に入れて、規則の対象を感染症から「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」へと拡大した。また同改定では、非公式の様々なチャネルから得られた情報に関して、WHOは当該国に照会し、検証を求めることもできるようになった。国際環境の変動に伴い、ルールを柔軟に変えていくことは不可欠なプロセスである。今回浮かび上がった第一の課題は、感染症の初動対応におけるWHOの権限見直しであろう。上述の通り、発生国がそれぞれの領域内で国際的拡大をもたらすおそれのある公衆衛生リスクが確認された場合には、自発的にWHOに報告することが求められるが、世界の多くの国がそのような義務を適切に果たせない現状がある。WHOがあらゆる情報を駆使して、そのようなリスクを早期に発見し、必要な対応を行えるようにするなど、初動対応におけるWHO権限の見直しが必要となろう。

このほか状況の評価や各国への勧告に関しても、より詳細な基準づくりが必要となろう。インフルエンザについては状況に関する6つのフェーズが設けられているが、それ以外の感染症については「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」か否かという二つの基準しかない。より細かい状況区分を設定されるべきであるし、個々のフェーズについて、渡航や水際対策、サーベイランス等に関するより具体的な勧告基準を作成する必要もあるだろう。

実現に向けた連携

以上の問題点はいずれも、国際社会の構成員の積極的な関与と連帯がなければ改善されるはずもなく、その意味で国際協調が不可欠だと言える。改革のための具体的なロードマップを作成し、実行に移していくのもWHO加盟国である。また改定に必要な賛成票を集めるべく外交を展開するのも加盟国である。この点に関しては、明るい兆しもある。G7の保健大臣は4月以降、上述のような問題点を改善するべく、WHO改革に向けた協議を着手、2020年8月下旬、仏独を中心に具体的な改革案をとりまとめた。改革案にはWHOの安定的な資金確保の枠組みや、発生国の初動義務・WHOの初動権限の強化、緊急時におけるWHOのオペレーションを評価する独立の専門家委員会の設置等が盛り込まれた。今後、11月の世界保健総会に向けてこの改革案にアメリカや中国等の支援を確保していくための働きかけや外交交渉が活発化することが予測される。

このほかにも今、国際協調が必要とされる理由はいくつも存在する。その一つは新型コロナの影響があまりにも広範囲に及ぶからである。新型コロナは我々の健康を害するのみならず、現に世界経済の混乱を招き、貧困の助長、社会不安、国際秩序の変容をもたらすことさえ懸念されている。いずれの課題も一国の対応には限界があり、各国が連帯して対処や予防策を講じる必要がある。このほか、中国の台頭を抑制するためにも連帯が必要である。アメリカの不在はややもすれば保健協力における中国台頭の余地を与えうる。中国は従来より、この分野における勢力拡大を狙ってきた。中国産の医薬品は先進国の高価な医薬品とは異なり、途上国にとってアクセス可能なものであり、今後、中国がワクチン開発に成功し、途上国に供給すれば、台頭の余地はさらに大きくなる。他方、中国は従来の保健協力で重視されてきた人権の尊重や透明性の確保といった規範を必ずしも重視するとは限らない。ガバナンスの根幹となる規範を維持・強化する上でも、日本やヨーロッパ、カナダやオセアニアなど自由民主主義国の積極的な関与が必要なのである。そのようにして日本をはじめとする国々が連帯して保健協力を支えることができるならば、もしバイデン大統領が誕生した場合にはアメリカを取り込み、連帯を加速させることができるかもしれない。米民主党議員の多くはアメリカが積極的に保健協力やWHO改革に関与することを望んでいるからだ。

とりわけ日本に期待される役割は大きい。コロナを収束に導くという喫緊の課題に対しては、日本はアメリカ、中国双方と悪くない関係を維持しており、双方に協調に向けて働きかける役割が期待される。さらにCOVAXファシリティにも参加する方向性を固め、今後、ワクチンへの公平なアクセスを実現していく上でも日本のイニシアティブに期待が寄せられる。

このほか、次なるパンデミックに備えるという、中長期的課題に対しても、日本の役割は小さくない。日本は新型コロナ前より、その高い技術力と国民皆保険を達成した経験を生かし、保健・医療分野を国際協力の基軸に据えてきた。具体的には、全ての人が基礎的な保健医療サービスを必要な時に負担可能な費用で享受できること(ユニバーサルヘルスカバレッジ)を目指し、アフリカやアジアで保健システムの強化に向けた支援を展開してきた。また人工透析の技術や日本製医療機材の供与、母子手帳の普及にも力を入れてきた。今後は途上国における感染症対応能力の強化に向けた支援も視野に、より幅広い保健協力に尽力して行くことができれば、次なる感染症に備えるという公衆衛生上のインパクトに加え、日本の国際的信頼を高めることにもつながるだろう。

このほか、感染症対策をより広義の安全保障として捉える視点も今後必要となろう。上述の通り感染症は地球環境の変化と密接に関わり合っており、一旦感染が広がれば、世界経済や日常生活、国家の防衛に至るまで幅広い分野に甚大な影響を与えうる。そのため、平時から安全保障という視点で、感染症に対する万全の体制を整えていく必要がある。具体的には日米同盟や「自由で開かれたインド太平洋戦略」、日中韓保健相会合など既存の枠組みの中で、感染症モニタリングシステムの構築や対応能力の強化、ワクチンの共同開発などを活性化させていく努力が必要だろう。WHO設立に際してアメリカが想定したように、保健協力は国家間が比較的合意しやすい分野であり、協調の土台となる可能性を秘めている。そのような可能性を開花させるためにも、そしてこの感染症を収束に導き、次なる感染症に備える上でも、施政者の熱意と政治的意図が必要なのである。