国問研戦略コメント

国問研戦略コメント(2020-6)
ロシアにおける新型コロナウイルスの感染拡大と政府の対策

2020-04-24
伏田寛範(日本国際問題研究所研究員)
  • twitter
  • Facebook

はじめに

 ロシアにおける新型コロナウイルスの感染拡大は他のヨーロッパ諸国と比べてペースが緩やかであったが、3月下旬からモスクワを中心に感染者数が急増し、4月以降は爆発的に増加している。4月14日現在でのロシアにおける新型コロナウイルス感染者数は2万1102人(前日比+2774人)、回復した者は1694人、死者は170人に上る1。以下、本稿ではロシアにおける新型コロナウイルスの感染拡大状況と政府の対策について概観し、今回の新型肺炎拡大がロシア政治の今後に及ぼす影響についても言及しよう。

1 ロシアにおける新型コロナウイルスの感染拡大

 ロシアで最初の感染者が確認されたのは1月末で、感染者は中国人留学生の2名であった。その後、中国、イタリア、フランス、オーストリアからの帰国者の中から感染者が見つかり、3月13日時点での感染者数は合計45人(うちモスクワ市民は24人)であった。3月17日には感染者数114人を記録し、その2日後の3月19日には新型コロナウイルスでの最初の死者が出た。この時点ではまだロシア国内では感染者の急増といった状況にはなかったと言えるだろう。
 3月下旬に入り、ロシア国内における新型コロナウイルスの感染状況は深刻化してゆく。プーチン大統領が感染者の治療にあたっているモスクワ市内の病院を視察した翌日の3月25日、新たな感染者数は163人と初めて100人を超え、以来、急速に感染者数が増加している。3月27日にはロシア全国で1036人の感染者が確認され、3月31日にはプーチン大統領の病院視察の際に案内役を務めた院長の感染も確認された。詳細は次節に譲るが、ロシア政府は新型コロナウイルス対策のために様々な方策をとってきたにもかかわらず、感染者の増加を抑えることができず、4月7日以降は毎日1000人以上の新たな感染者が確認され、本稿執筆時点の4月14日には感染者の総数は2万人を超えた。

2 ロシア政府の新型コロナウイルス対策2

 ロシア政府の新型コロナウイルス問題への対応は早かった。当初とられた対策には、(1)特定の国との交通の制限や特定の国の市民・居住者の入国禁止、(2)特定の国からの入国者・帰国者の隔離・経過観察措置、(3)マスク類など特定物資の輸出規制、などがあり、その後ロシア国内での感染拡大を受け、(4)国境の閉鎖、(5)市民の活動の制限や学校・公園・商業施設等の閉鎖、といったより厳しい措置がとられていった。
 まず、(1)の感染の拡大している国との交通の制限や特定の国の市民・居住者の入国禁止についてみてみよう。中国での新型コロナウイルスの感染拡大を受け、ロシア政府は1月31日にモスクワ・北京間の直通鉄道の運休を決定し、2月1日からは中国との航空旅客便も停止した。また、2月1日より中国人旅行者のビザ免除措置を停止し、就労ビザの新規発給も停止させた。中国以外の感染の拡大している国に対しても同様の措置がとられるようになり、2月28日よりイラン人への通常ビザとトランジットビザの発給を停止し、3月1日からは韓国との航空便を制限した。その後、3月7日からはイラン人の入国を禁止し、さらにヨーロッパ諸国での感染拡大を受け、3月13日からはイタリア人の入国を禁止し、16日からはEU加盟国、ノルウェー、スイスとの航空便を制限し、20日からはイギリス、アメリカ、UAE便も制限対象となった。
 続いて(2)の感染の拡大している国からの入国者・帰国者の隔離・経過観察措置についてみてみよう。ロシア政府は2月5日、軍の輸送機を派遣し、武漢に滞在するロシア人のうち希望する144名を帰国させ、西シベリアの都市チュメニ郊外の特別施設で経過観察を受けさせた。また、2月23日にはクルーズ船ダイアモンド・プリンセス号から下船したロシア人乗客8名をボルガ河畔の都市カザン郊外の特別施設に移送し、経過観察を受けさせた。3月に入り、こうした入国者・帰国者の隔離・経過観察措置はさらに対象が広がる。3月5日、モスクワ市は、感染拡大の続く中国、韓国、イタリア、イラン、ドイツ、フランス、スペインからモスクワ市を訪れる全ての人を対象に、14日間の隔離措置をとることを決定した。また、16日からはこれらの国に加え、アメリカ、イギリス、EU加盟国、ウクライナ、ベラルーシからの入市者も14日間の隔離措置の対象者となり、入市者本人だけでなくその同居人についても隔離対象とした。さらに、国外での感染拡大が止まぬなか、ロシア政府は一段厳しい措置をとることになった。3月18日より5月1日まで外国人の入国を原則禁止とし、3月30日からは国境を閉鎖した。
 上記(3)の特定物資の輸出規制についても触れておこう。3月4日、ミシュースチン首相はマスク、白衣、包帯、防護服、手袋、ガーゼ、ゴーグルといった医療用物資の国外持ち出しを、人道援助等を除き、一時的に禁止することを決定した。また、世界的な感染拡大による生産・物流の混乱などを見越して、ロシア政府は4月1日から6月30日まで一時的に小麦など穀物の輸出を制限することを決定した。世界最大の小麦輸出国であるロシアの輸出制限は、国際相場に影響を及ぼす可能性がある。
 こうした対外的な対応に並行して、ロシア国内での感染拡大を防ぐため、上記(5)の市民生活に一定の制約を課す対策も実施されていった。率先して対策がとられたのは、感染拡大の中心地となった首都モスクワであった。3月16日、モスクワ市は屋外のいかなる大規模イベントも50人以上が参加する屋内イベントも開催を禁止し、また3月21日から4月12日までモスクワ市内の学校を一斉休校とすることも決定した(全国レベルでは3月23日より4月12日まで一斉休校が実施されている)。さらにモスクワ市は、3月26日から4月14日までの間、65歳以上の高齢者と持病のある者を原則外出禁止とした。
 モスクワで一連の対策がとられてゆくなか、3月24日、プーチン大統領はモスクワ市内の病院を視察し、翌25日には全国民に向けてメッセージを発し、①公的機関、病院・薬局、生活必需品の商店などを除き、3月28日から4月5日までを国家が賃金を保障する有給の「非労働週間」として国民に自宅待機を求める(その後、4月2日に発せられた2回目のメッセージでは、有給の「非労働日」は4月30日まで延長するとした)、②社会給付や特典を6ヶ月自動延長する、③3歳までの子供のいる家庭に対し子供一人あたりに追加の給付金を出す、④失業手当を引き上げる、⑤収入が急激に減少した際のローン返済猶予を認める、⑥中小企業の納税の猶予を認める、などといった一連の方針を打ち出した(なお、4月22日に予定されていた憲法改正の賛否を問う国民投票は延期となった)3。このプーチン大統領のメッセージを受け、ロシア政府は3月28日から4月5日までレストランやバーなどを閉鎖することを決め、また6月1日までリゾート地のサナトリウム、ペンション、ホテルなどが観光客を受け入れることを禁止した。さらに地方政府に対しては大規模イベントの中止と映画館等の閉鎖、市民の移動の制限を推奨した。
 全国レベルで新型コロナウイルス対策への警戒レベルが引き上げられるなか、モスクワ市はさらに厳しい措置をとってゆく。3月28日から市内のレストラン、カフェ、日用必需品以外を販売する店舗、理髪店、美容室、公園などを閉鎖し、3月30日からは全市民に対し外出禁止令を発した。その結果、外出できるのは緊急事態、必要不可欠な通勤、最寄りの店舗での日用必需品や医薬品の購入、自宅から100メートル以内でのペットの散歩、ゴミ捨てに限定された。また、モスクワ市はIT技術を応用して人々の移動を監視するシステムを構築する意向も示した(その後、4月1日からQRコードを利用した「外出許可証」が発行されるようになり、15日からは自家用車や公共交通機関の利用に際して「デジタル許可証」が必要となった。また4月3日からは自宅療養中の軽症者や無症状の感染者を対象としてスマホのアプリで所在地を確認するシステムが始動している)。
 連邦政府は地方政府に対し、こうしたモスクワ市の対策に範をとるようにと指示し、3月30日にはモスクワに続き第二の都市ペテルブルクと14の地域で外出禁止令が発せられ、4月1日にはウラジーミル州、タタールスタン共和国で移動許可証制が導入された。また、外出禁止令にあわせて、連邦レベルでも地方レベルでも違反者への行政罰の厳格化がなされた。
 以上のような感染拡大の封じ込め対策と合わせて、短時間で感染の有無を判定できるPCR検査に代わる新方式の検査方法の確立、新ワクチンの開発が進められており、前者については4月6日に連邦保健監督局に登録され、後者についてもロシア国立ウイルス学・生物工学研究センター(通称ヴェクトル)は今夏にも治験を開始するとしている。

3 ロシア政治への影響

 前節で見たような一連の対策にもかかわらず、ロシア国内における新型コロナウイルスの感染者の増加は食い止められていない。4月2日のプーチン大統領の演説でも言及があったように、現時点では感染拡大のピークにはまだ達していないのであろう。大統領はより厳しい措置をとることを連邦政府と各地方政府に求めている。
 他方、前節で見た一連のプーチン大統領の緊急対策はロシア国民の間では肯定的にとらえられているようだ4。ロシアの政府系世論調査機関「世論基金」によると、プーチン大統領の支持率は、3月上旬に憲法改正案が固まり、2024年の大統領選挙に再度プーチン氏が出馬できることが明らかとなって以来、プーチン支持率は60%程度に低下していたが、緊急対策を打ち出した3月25日の演説後64%に回復した。別の世論調査機関であるVCIOM(全ロシア調査センター)もプーチン支持率は71.5%に回復したと報じている。支持率回復の背景には、「有事を前にして団結する」というロシアの国民性もあるのだろうが、より直截的には有給の「非労働日」を始めとする一連の緊急対策があることは明白だろう(VCIOMの調査では、「非労働日」を1ヶ月に延長した4月2日の演説を72%の国民が支持しているという)。
 2018年8月末に年金制度改革を打ち出して以来、ロシア国民はプーチン大統領への信頼を失っていた(前出の「世論基金」の調査によると、支持率は78%から63%に急落した)。生活の保障と引き替えにプーチン体制を支持するという「暗黙の社会契約」が政権側によって破棄されたように見えたからだ。このことは政権中枢に少なからぬ衝撃を与えたようであり、今年1月から進められている改憲の議論においてもロシアが社会国家であることをより明確に示すため、最低賃金の保証や年金支給額の物価スライド制の導入などが盛り込まれていった。こうした社会保障の強化は、国民との間で「暗黙の社会契約」を結び直し、国民の政治的支持を取り付けることを意図したものと言えるだろう。今回の有給の「非労働日」や社会給付・特典の自動延長、子供のいる世帯への援助、中小企業への支援策などはいずれも「暗黙の社会契約」の強化につながりうる。
 その一方で、今回の新型コロナウイルス対策には体制への従順を強いることにつながりかねないものが紛れているとの批判が出ている。前節でみたとおり、モスクワ市を始め一部でIT技術・スマートフォンを活用した市民の監視態勢が整えられている。ロシアに先んじて韓国はこれと同様の仕組みを整えたが、個人情報の取り扱いやプライバシー保護の観点からの批判がないわけではない。ロシアにおいても韓国同様、当局が防疫を名目に市民の行動を監視することについて懸念する向きが現れている(なお、こうした懸念に対しモスクワ市長は、個人情報の保護を約束し、現在の警戒態勢が解かれれば、移動許可証の発行の際に集めたデータの全てを破棄すると述べている)。さらに、今回の感染症対策をきっかけに、より大がかりな監視システムが構築され、反体制運動の取り締まりに利用されるのではないかといった指摘も野党から上がっている5

おわりに

 本稿の冒頭でも指摘したとおり、ロシア国内の感染者数は増加し続けており、近い将来に終息を見通すことは難しい。また、これまでのロシア政府の対策が功を奏するかどうかも予測しがたい。ひとつ言えることがあるとするならば、もし、一連の対策によって上手くこの問題を乗り切ることができれば、「危機に強いプーチン大統領」というイメージが強化され、いったんは綻びかけた政権と国民との間の「暗黙の社会契約」の結び直しにつながる。これはプーチン大統領の任期満了を迎える2024年以降のロシアの政治体制の方向性を規定することになるだろう。

(2020年4月14日脱稿)





1 https://www.interfax.ru/chronicle/novyj-koronavirus-v-kitae.html(2020年4月14日アクセス)
2 本節の記述は主に、インタファクス通信(https://www.interfax.ru/chronicle/novyj-koronavirus-v-kitae.html(2020年4月14日アクセス))並びにタス通信(https://tass.ru/obschestvo/8057143(2020年4月10日アクセス))の情報を基にしている。
3 http://kremlin.ru/events/president/news/page/37(2020年4月10日アクセス)
4 https://www.bbc.com/russian/news-52035171(2020年4月10日アクセス)
5 https://www.yomiuri.co.jp/world/20200406-OYT1T50176/(2020年4月10日アクセス)