国問研戦略コメント

国問研戦略コメント(No.7) 
「日ロ平和条約交渉―これまでの経緯と今後の交渉ポイント―」

2019-01-23
伏田寛範(日本国際問題研究所研究員)
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はじめに

 1月22日、日ロ首脳会談が開催された。会談後の共同記者会見において安倍首相とプーチン大統領は、領土問題については相互に受け入れ可能な解決を目指すことを強調し、経済分野を中心に日ロ間の協力関係を一層深めてゆく考えを示した。
 昨年11月14日にシンガポールで開催された日ロ首脳会談において、安倍首相が1956年に調印された「日ソ共同宣言」を基礎として平和条約交渉を加速化させることでプーチン大統領と合意したと発表して以来、この首相の言葉を裏付けるように、日ロ両首脳は3か月連続で会談を実施しており、日ロ平和条約交渉の加速化がみられる。小欄ではこれまでの日ロ交渉を振り返りつつ、今後の交渉の展開を見てゆく上でのポイントをいくつか指摘したい。

1 領土問題発生の経緯

 戦後70年以上も経つにもかかわらず、日本とロシアとの間で平和条約が締結されていない最大の理由は、両国間に横たわる領土問題が解決していないことにある。まずは日本とロシアとの間の領土問題が発生した経緯についてごく簡単に振り返っておこう。
 日本とロシアとの間で領土問題が発生する原因となったのは第二次世界大戦末期のソ連の対日参戦である。ヨーロッパ戦線の帰趨が明らかになりつつあった1945年2月、アメリカ、イギリス、ソ連の3か国はヤルタ協定を結び、ソ連は日露戦争で失ったサハリン(樺太)の南半分と千島列島(1855年の日魯通好条約により択捉島とウルップ島の間に日ロ間の国境線が引かれ、1875年の樺太千島交換条約により最北の占守島までが日本領となっていた)を獲得することを条件に、ドイツ降伏後2~3カ月のうちに日本と開戦することを取り決めた。さらに同年7月には米英ソ3か国はポツダムで会談を行ない、米英中3か国(同年8月8日にソ連も参加)の連名によるポツダム宣言を発し、日本に降伏を勧告した。しかし、日本はポツダム宣言を黙殺したため、同年8月8日、ソ連は当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して対日宣戦を布告し、翌9日から満州や千島列島への侵攻を開始した。日本のポツダム宣言受諾後もソ連は攻撃を続け、8月28日から9月5日までの間に北方四島も含む千島列島を占領し、翌1946年2月には自国領に「編入」した。こうして今日まで続く北方領土問題のきっかけが生じた。

2 平和条約交渉の歩み(ソ連時代)

 第二次世界大戦の戦後処理の過程で日ソ間の領土問題はさらに複雑なものとなった。ポツダム宣言では、戦後の日本の領土は本州、北海道、四国、九州と連合国が決める諸小島に限定されると定められたが、当の連合国(米英ソ)の間でどの島を日本領とするのかについて意見を一致させることができなかったのである。1951年、冷戦のさなかに開催されたサンフランシスコ講和会議において、日本は朝鮮半島、台湾、澎湖諸島、千島列島、南樺太、新南群島(南沙諸島)に対する一切の権利を放棄した。同会議の席上、アメリカ代表は歯舞群島は日本が放棄した千島列島には含まれないと主張したが、ソ連はこれに強く反発し、また自国の講和条約修正案が受け入れられなかったことを理由に、米英の主導によって作成された条約案への調印を拒否した。こうして日本が放棄した千島列島の範囲とそれがどこに引き渡されるかについてはあいまいとされてしまった。
 サンフランシスコ講和条約の締結により日本と連合国との戦争状態が終結し、西側諸国との国交が回復したが、同条約への調印を拒否したソ連をはじめとする社会主義国との国交回復は未解決のままとされ、個別に交渉してゆくこととなった。スターリンの死後の「米ソ雪解け」を背景に、日本政府はソ連との国交回復のための交渉に着手し、1956年10月に「日ソ共同宣言」に調印した。周知のとおり、同宣言では平和条約の締結後歯舞・色丹の2島を日本側に引き渡すことは明記されたが、択捉・国後の扱いについては何も言及されていない。それでもシベリア抑留者の早期帰還を望んだ日本政府はソ連との国交回復を優先した。こうして「日ソ共同宣言」の調印後、日本側は1855年の日魯通好条約以来、常に日本領であった択捉・国後もふくめた4島の返還を求めて、ソ連との平和条約交渉を進めることとなった。
 他方、ソ連(ロシア)側は、1960年の日米安保条約の改定を日本による「日ソ共同宣言」の履行義務違反だと非難し、日本領土からの全外国軍隊の撤退なしに歯舞・色丹の引き渡しには応じられないと一方的に通告した。その後、ソ連は1991年4月のゴルバチョフ大統領の訪日まで、日ソ間に領土問題は存在しないとの態度をとり続けた。

3 平和条約交渉の歩み―エリツィン政権時代(1992~2000年)

 ソ連が崩壊した1991年の4月、ゴルバチョフ大統領の訪日にあわせて日ソ共同声明が発表された。同声明では北方四島の名前が具体的に示され、日ソ間に領土画定問題が存在することをソ連側が初めて文書で認めたという意味で日ソ交渉の大きな転換点となった。しかし、同年12月にソ連は崩壊し、平和条約締結交渉はソ連の後継国となったロシアに引き継がれることになった。
 ソ連崩壊後の日ロ交渉の大前提となったのは、1993年10月のエリツィン大統領訪日時に署名された「東京宣言」である。「東京宣言」では、日ロ間の係争地は択捉・国後・歯舞・色丹の4島であることが明記され、法と正義に基づき北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する方針が示された。日ソ共同宣言では言及されなかった択捉・国後についても領土交渉の対象となっていることをロシア側も認めたという点で、「東京宣言」は日本にとって大きな成果であった。なお、少し先取りして言えば、プーチン政権以降、日ロ平和条約交渉はこの「東京宣言」の扱いを巡って両国の激しい綱引きが繰り広げられることになる。
 ソ連の負の遺産を清算することを最優先に掲げていたエリツィン政権は、外交面では西側諸国との協調路線をとり、市場経済化などの改革への支援を取り付けようとした。アメリカに次ぐ経済大国であった日本からも支援を取り付けるためにも、日本との関係改善(ひいては平和条約の締結)が重視されるようになった。「東京宣言」後、日ロ両国の首脳はクラスノヤルスク(1997年11月)、川奈(1998年4月)、モスクワ(1998年11月)と会談を重ね、その都度、「東京宣言」で示された四島の帰属問題を解決し、平和条約を締結する方針を確認してきた。
 

4 平和条約交渉の歩み―プーチン政権時代(2000年~)

 2000年9月、プーチン大統領が初来日した。その際、平和条約問題に関する両国首脳の声明が発表され、(1956年の「日ソ共同宣言」や1993年の「東京宣言」も含む)これまでの全ての諸合意に立脚して、四島の帰属の問題を解決することにより平和条約を策定するための交渉を継続することが確認された。なお、この時プーチン自身は「日ソ共同宣言」の有効性を認める発言をしており、今日ロシア側の主張する「日ソ共同宣言」に基づき問題の解決を目指すべきだという議論の根拠となっている。また、ロシア側は「東京宣言」の有効性も明示的に認めてきた。たとえば、2001年3月のイルクーツクでの首脳会談では、1956年の「日ソ共同宣言」を交渉プロセスの出発点と位置付け、その法的有効性を文書で確認し、その上で「東京宣言」に基づいて四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結することが再確認する声明が出され、2003年1月の小泉首相の訪ロ時に発表された「日ロ行動計画」においても「日ソ共同宣言」「東京宣言」「イルクーツク声明」の3文書が具体的に列挙され、これらが今後の平和条約交渉の基礎となることが明記されている。
 他方、時間が下るにつれプーチン政権は「東京宣言」の有効性を明示的には認めようとはしない姿勢を見せだしている。先に挙げた2003年の小泉首相訪ロ以降、日ロ両国による声明等で「東京宣言」が明示されることはなくなった。たとえば、2013年の安倍首相の訪ロ時においては、小泉政権時の「2003年の共同声明及び行動計画」に言及されているものの、「東京宣言」への直接的な言及はない(「日ロ行動計画」において「東京宣言」が明記されているため、間接的にはロシア側も「東京宣言」の有効性を認めていると言うことはできる)。さらに、2016年のプーチン大統領訪日時に発表されたプレス向け声明では、「択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島における日本とロシアによる共同経済活動に関する協議を開始することが、平和条約締結に向けた重要な一歩になり得る」と日ロ双方が理解したと書かれるにとどまり、「東京宣言」やその有効性を認めた過去の文書への言及はなくなっている。
 このように近年の日ロ両国による声明等を見てみると、ロシア側が「東京宣言」の有効性を簡単には認めようとしていないとうかがうことができるだろう。ロシア側からしてみれば、「東京宣言」はロシアの国力が圧倒的に弱かった時期に署名されたものであり、必要以上に日本に譲歩した内容になっていると見えているのだろう。「強いロシア」の再建をスローガンに掲げてきたプーチン政権にとってみれば、「弱いロシア」時代の負の遺産を是正したいという動機があるように思われる。2000年代半ば以降、急速な経済成長を背景に自国の国力に自信をつけたプーチン政権は、2007年の「ミュンヘン演説」にあらわされるように欧米に対し強硬な姿勢をとることが目立つようになってゆくが、対日政策においてもロシア側の「原則論」(たとえば、日本側が第二次世界大戦の結果、北方四島がソ連・ロシアの帰属に移ったことを受け入れることが日ロ平和条約交渉の出発点である、といったような言説)を声高に主張するようになっていったと言えるだろう。

5 今後の日ロ平和条約交渉のポイント

 ここ最近、ロシア側は日本側をけん制するような発言を繰り返している。たとえば、2017年6月、プーチン大統領は、北方領土の「引き渡し」後に「米軍基地やミサイル防衛システムが設置されることは絶対に受け入れられない」と主張し、さらに2018年11月のシンガポールでの日ロ首脳会談の後には、日ソ共同宣言で明記された歯舞・色丹の2島の引き渡しの義務を認めつつも、引き渡した後の「島の主権が(日本とロシアの)どちらかになるかは書かれていない」と発言している。ラブロフ外相も、先日の日ロ外相会談(2019年1月14日)において「ロシアの南クリル(北方領土のロシア側呼称)での主権を含め、日本側が第二次世界大戦の結果を認めることが(平和条約交渉)の第一歩だ」と述べている。
 こうした発言を踏まえると、ロシア側は平和条約交渉を進めるにあたって、①第二次世界大戦の結果、北方四島を含む千島列島の主権は日本からロシアに移ったという歴史認識を日本も共有すべきである、②平和条約締結後、引き渡されるのは歯舞・色丹の2島のみである。その際、引き渡しの様態(日本には施政権のみを認めるなど)については今後の検討課題である、③引き渡された後の島に米軍基地やミサイル防衛システムを配備してはならない、といった「条件」をつけてきていると理解することができる。
 このようなロシア側の「条件」は一見、強硬で厳しいもののように感じられるが、ソ連時代を通じてロシア側が主張してきたことの繰り返しであり、日本との対話を拒むものではないことを理解し、冷静に対応することが求められる。上記①~③について、簡単に触れておこう。
 ①については、戦後長らく領土問題が存在することを主張してきた日本側の論拠を根本から覆すもので、日本政府はとうてい認めることはできないだろう。ロシア側もそのことは十分に理解しているだろうが、ハードルを上げて交渉を有利に進めたいということなのであろう。②については、共同宣言の文言を素直に読めば、島の「引き渡し」の際には主権が日本側に移ると捉えるのが自然であり、ロシア側の言い分は無理筋に近いと言える。ただし、日本政府は1991年の「日ソ共同声明」以来、「北方領土の日本への帰属が確認されるのであれば、実際の返還の時期及び態様については、柔軟に対応する」との方針を堅持しており、プーチン大統領の指摘する島の「引き渡しの様態」については折り合える余地がなくはないのかもしれない。③については、近年ロシア側が繰り返し懸念を表明しているものである。とりわけ、クリミア編入以降、米ロの対立が深刻化するなかで、ロシア側はこれまで以上に安全保障に敏感になっている。ソ連崩壊後、西側諸国がNATOを拡大しないと「約束した」にもかかわらず、その約束が反故にされ、NATOの東方拡大を阻止できなかったと受け止めているロシアにとってみれば、歯舞・色丹両島に在日米軍が展開しないことを拘束力のある形で日本側が保証することが不可欠であると考えているのであろう。この点に関しロシア側の要求を日本がそのまま受け入れることは困難であろうが、今後、日ロ相互が信頼醸成してゆくなかで、ロシア側の懸念を解きほぐすことは可能となるかもしれない。同時に、米ロ関係およびロシアがくさびを打ち込みたいと考えている日米同盟のありようもまた、この問題の解決に影響を及ぼすことに留意する必要があるだろう。
 

おわりに

 安倍首相とプーチン大統領は、日本とロシアの間に平和条約が締結されていないことはきわめて不自然な状態だと繰り返し訴えてきた。とりわけ「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍政権にとってみれば、平和条約の締結(とそれに伴う国境の確定)は日ロ間の戦後を総決算するという意味で政権最重要の課題のひとつに位置づけられている。プーチン大統領にとってみても、日本との平和条約の締結は、クリミアの帰属めぐって争うウクライナを除けば、隣国との国境問題を全て解決することにつながるという意味で歴史的な業績となりうる。また、G7の一員である日本との関係が改善することによって、言い方を変えれば、日本を突破口に今日袋小路に陥った西側との関係改善を進める可能性が開けるという意味でも大きな業績となりうる。こうした日ロ両首脳の政治的リーダーシップが近年の日ロ関係を牽引してきたと言えるだろう。
 他方、前節でみたロシア側の「条件」に加え、日ロ両国の世論の動向次第では見通しは必ずしも楽観できないとの指摘もなされている。ロシア側では11月のシンガポールでの日ロ首脳会談後、平和条約締結後の北方領土の引き渡しに反対する集会が相次いで開かれ、日本側でも世論調査によれば、「2島だけの返還」や「領土問題が解決する前に平和条約を締結すること」には慎重論も出されている。今後、日ロ両国政府は、領土問題の解決と不可分である平和条約を締結することにより、両国の関係がどのように変化し、また両国がどのように協力してゆくことになるのかの青写真を丁寧に説明してゆく必要があるだろう。