コラム

『China Report』Vol. 2
「総体国家安全観」の位相

2015-11-27
角崎信也(日本国際問題研究所研究員)
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はじめに

 2015年7月1日、全国人民代表大会常務委員会第15回会議において「中華人民共和国国家安全法」が可決された。この「国家安全法」は、中国国内の政治・経済的安定および中国の対外的な安全保障に関わる各分野について定めたものであり、まさに、中国という国家の存立の根幹に関わる法律と言える。では、なぜ習近平政権は、この時期に新たに「国家安全法」を成立させたのか。言い換えれば、この「国家安全法」は、習近平政権の如何なる国内・国際情勢認識を反映したものと言えるのだろうか。
 それを知るためには、第一に、その前年に習近平によって提唱された「総体国家安全観」1の背景を確認することが必要である。「国家安全法」第3条が「国家安全工作は総体国家安全観を堅持しなければならない」ことを明記していることからも明らかである通り、同法は、習近平の「総体国家安全観」 を反映したものであるからである。
 そこで本コラムでは、習近平をして「総体国家安全観」を提唱するに至らしめた国内・国際情勢認識を確認し、さらに、そこから示唆される中国の対外政策の展望を論ずる。


1.習近平の国内・国際情勢認識と「総体国家安全観」
 
 習近平は、2014年4月15日に開催された中央国家安全委員会第1回会議において、対外的安全保障と対内的安定維持を同時に重視し、伝統的安全保障と非伝統的安全保障を同時に重視せねばならないことを指摘した。その上で「国家安全」の定義に関し、それに関わる領域を、政治、国土、軍事、経済、文化、社会、科学技術、情報、生態系、資源、核の11項目に広げた極めて包括的な解釈を提示し、これを「総体国家安全観」として概念化した2。「国家安全法」は、この「総体国家安全観」を国法として具体化したものと位置付けられる。
 習近平をして、このコンセプトを提唱せしめた背景にあるのは、中国の安全保障が現在「新情勢(新形勢)」下にあるという認識である。習近平は、中国共産党第18期中央委員会第3回全体会議(2013年11月)において「現在、我が国は、対外的に国家の主権、安全、発展利益を維持し、対内的に政治安全と社会安定を維持しなければならないという二重の圧力に直面しており、各種の予見可能なリスク要素と予見困難なリスク要素が顕著に増加している」との認識を示した3。また習は、中央国家安全委員会第1回会議の10日後に実施された中共中央政治局第14回集団学習において、「新情勢下における我が国の国家安全と社会安全が直面している脅威と挑戦は増加している」との見解を示している4。つまり習近平政権は、近年の情勢変化を受けて、対外的に、また対内的に、自身が継続的に発展していくための安全を維持する難度が上昇しているという認識を有している5
 習近平は、「新情勢」を構成する具体的な要素について必ずしも明らかにはしていない。だが、2014年に初めて刊行された『中国国家安全青書』を含むいくつかの書籍や論文を通して、その概略を知ることは可能である。それによれば、中国は、自国が国際社会におけるプレゼンスを増大させるにともない、それを抑え込もうとする外部勢力の挑戦も増大していると捉えている。とりわけ中国の危機意識を増大させているのは、次の3つの周辺状況の変化、すなわち、米国のアジア太平洋への「リバランス」、日中関係の悪化、および南シナ海における領土・領海をめぐる争いの激化である6。内、中国の安全保障認識に最も大きな影響を与えているのが、言うまでもなく、米国の「リバランス」である。例えば人民解放軍国際関係学院の劉強は、「総体国家安全観」の背景を解説する論説において、「米国の『リバランス』戦略の不断の深化により、中国を抑え込もうとする力が不断に大きくなり、その結果中国の平和的発展の戦略的好機のための時空はかつてない圧力を受けている」との認識を示している7
 中国の指導部が認識するところ、こうした「圧力」は、単に軍事的な手段によって展開されているのではない。むしろ、現時点において「圧力」が顕著に増大しているのは主として、経済の領域(TPP(環太平洋パートナーシップ)やTTIP(環大西洋貿易投資パートナーシップ))、価値観やイデオロギーの領域(民主主義や人権)、あるいは海洋・空域の主権をめぐる言説の領域であり、指導部はこれらの領域において、米国を含む諸外国が、中国の国際社会におけるパワーの拡張を抑制するための攻勢を強化していると捉えている。「総体国家安全観」が非伝統的安全保障を重視するのは、中国が喫緊で対処すべき課題が主にこれらの点にあるからである。
 とりわけ、現状において中国の指導者たちが最も危機感を強めているのは、国際的に強まる「圧力」が、国内に存在する様々な矛盾と互いに連動することで、中国が内部から崩壊していく可能性に対してである。
 習近平らは、急速な経済発展に伴って社会における矛盾も短期間のうちに増大し、それが少数民族をめぐる問題や「群体性事件(集団騒擾事件)」の増加を招いているなかで、そうした矛盾を利用して体制の転覆や国家の分裂を図る国内外の勢力が勢いを増していることを注視している8。とりわけ、習近平政権の危機感を増幅させている問題は、新疆ウイグル自治区の少数民族を発生源とするテロや暴動事件の頻発化であり9、それに対する国際的なウイグル人組織やイスラム過激派組織の影響である。習近平らが最も恐れるのは、社会矛盾の「突出期」において、中国の国際社会における影響力の拡張を望まない外部の勢力が、そうした矛盾を激化させることで、内部から政治・社会の安定性を動揺させることである10。「総体国家安全観」が、「国際安全」と「国内安全」の両面を包括する概念として打ち出されたのは、こうした可能性に対して強い警戒心を抱くからである。
 ただし、こうした非伝統的安全保障分野のみに着目しては、「総体国家安全観」の「総体」たる所以を見失うことになる。2013年3月の演説において習近平は、「新情勢」下においては、「戦争に勝利する能力」を核心とする軍隊建設を強化すべきであるという考えを明らかにしているからである11。1996年頃より提唱され、同じく非伝統的安全保障が強調された「新安全観」12と対比させて言えば、「総体国家安全観」の特徴は、軍事力の増強による伝統的安全保障の強化に同等の重要性を与えている点にある。安全保障を自国の軍事力や軍事同盟の強化に依存し、結果安全保障のジレンマに陥ることを「旧い」安全保障観として退け、対話と協力を通して相互信頼を高めることで「共同安全」を実現すべきとする点に「新安全観」の要諦があったのだとすれば13、今回の「国家安全法」に「武装兵力の革命家、現代化、正規化に関する建設を強化する」(第18条)ことが明記されたことを軽視すべきではない。そこからは、例え周辺諸国の間で対中脅威認識が存在したとしても、対米関係が「新型大国関係」14の下で安定的に維持されている限りにおいては、それが中国の安全保障環境を根本的に害するものでなないという戦略的自信を見て取ることができる。いずれにせよ、習近平らは明らかに、より長期的な意味において中国が「国家安全」を維持し続ける上で、また、対外政策上の「戦略的主導権」15を獲得する上で、軍事力を引き続き強化していく必要性を強く認識している。


2.中国の対外政策をめぐる展望
 
 では、「総体国家安全観」の提唱、および「国家安全法」の制定によるその法制化は、中国の対外政策が、今後いかなる方向へ進んでいくことを示唆しているのだろうか。
少なくとも明らかであることは、現在の指導部の上記のような安全保障上の危機意識の増大は、中国の対外政策が今後より抑制的な方向へ転じて行くことを意味するのではないということである。習近平は、国家安全に関わるリスクの増大を確かに認識しているにもかかわらず、「我が国の発展は依然として大いに為すところがある(大有作為)重要な戦略的好機におかれている」という情勢判断を放棄してはいない16。この発言は、中国が引き続き、現在の積極的な外交姿勢を維持していく意志を表している17
 「リスク」の増大の一方で「好機」の存続を強調する習近平の国際情勢認識は一見して両義的であるが18、しかしこれらは相互に矛盾しているのではない。
 第一に確認しておくべきは、現在の指導部が言う「国家安全」の目的は、単に中国の生存を維持するということに限られないということである。習近平は、第14回中共中央政治局集団学習において、「国家安全」を維持する目的について、「改革を全面的に深化させ、“二つの百年”の奮闘目標を実現し、中華民族の偉大な復興という中国の夢を実現するために十分に緊要である」と指摘している19。また、2013年3月の習近平の発言を受けて軍隊建設強化の重要性を説いた範長龍(中央軍事委員会副主席)は、「強固な国防、強大な軍隊なくしては、中華民族の偉大な復興のための安全保障は得られない」と論じている20。換言すれば、習近平政権が「国家安全」を保障するという場合、それは、単に中国という国家の「生存」を守るということのみならず、中国がさらに「発展」し、国際社会における影響力を拡大して行くための国際的・国内的環境を維持するという意味を含んでいるということである21。この場合における「リスク」とは発展のための「好機」に対するものである。
 第二に、おそらく習近平らは、「戦略的好機」を、単に外部から与えられるものとしてではなく、自ら主動的かつ積極的に維持ないし構築していくものとして捉えている22。習近平は、中央外事工作会議において、「大いに為すところがある重要な戦略的好機」を強調した上で、「同時に、各種のリスクと挑戦を重視しなければならず、巧みに危機を機会に変え、危機を安定に転じさせなければならない」と論じた23。これから示唆されるように、「総合国力」24を大いに増大させた中国は今や、中国にとって有利な国際環境を、与えられるものではなく、自ら構築していくべきものとして認識している25
 上記から明らかなように、「総体国家安全観」とは、少なくとも対外関係に関して言えば、決して防御的なコンセプトではない。これはむしろ、中国が国際社会における関与と主張を拡大させるにともなって、米国と日本を含む諸外国からの牽制と圧力も増大しているという情勢認識を踏まえて、それでもなお中国が国際的なパワーをさらに強大にしていくために有利な国際環境を主動的かつ積極的に「構築」していこうとする意志の表れである。言うまでもなくこれは、そうすることが可能なほどに国力を増強させたこと、また今後も引き続き増強させていけることに対する自信に基づいている。李黎が書いている通り、「総体国家安全観」は、「国内外の安全保障上の挑戦に有効に対応する戦略的自信の反映」なのである26
 したがって、習近平政権下の中国は、伝統的安全保障の領域の強化にも相応の力点を置きつつ、同時に、貿易、投資、金融、文化、サイバー、海洋、宇宙などのあらゆる側面において、自らが望む国際秩序を構築するためのプロアクティブな政策を精力的に実施していくものと考えられる。それを国際社会の場で表明したもの一つとして、2015年5月21日の「アジア信頼醸成措置会議」第4回首脳会談において提唱された「新アジア安全観」は位置付けられよう。習近平は、「アジアの安全保障は結局のところアジアの人民に依拠して維持すべきである」ことを述べ、米国の強い影響下で築き上げらえたものとは異なる、地域の新たな国際環境を主動的に構築していく姿勢を明らかにした。そして、こうした意志は「一帯一路」政策として、あるいは南シナ海の諸島嶼における埋立て・施設建設として、すでに具現化しつつあるのである。



1 ここで言う「安全」は「security」とほぼ同義であり、日本語で言う「安全保障」の意味も含意している。

2 習近平「堅持総体国家安全観 走中国特色国家安全道路」『新華網』2014年04月15日、http://news.xinhuanet.com/politics/2014-04/15/c_1110253910.htm(最終閲覧:2015年7月25日)。

3 習近平「関於『中共中央関於全面深化改革若干重大問題的決定』的説明」『新華網』2013年11月15日、http://news.xinhuanet.com/2013-11/15/c_118164294.htm(最終閲覧:2015年7月24日)。

4 「習近平在中共中央政治局第十四次集体学習時強調 切実維持国家安全和社会安定為実現奮闘目標営造良好社会環境」『人民日報』2014年4月27日。

5 徐雲鵬「制定国家安全法正当其時」『求是網』2014年12月23日、http://www.qstheory.cn/wp/2014-12/23/c_1113751814.htm(最終閲覧:2015年7月26日)。

6 劉慧、趙暁春「挑戦与応対:2013年中国国家安全形勢」劉慧他編『国家安全藍皮書 中国国家安全研究報告(2014)』社会科学文献出版社、2014年。

7 劉強「中国総体国家安全観的確立与前景」『前線』2014年5月、15-16頁。

8 「吹響関鍵国家安全工作“集結号”」『瞭望』2014年第16期(総第1572期)、2014年4月、2頁。

9 同自治区における民族問題の頻発化については、星野昌裕『習近平政権と新疆ウイグル自治区の民族問題』『東亜』2015年3月号(No.573)を参照されたい。

10 李黎「貫徹落実総体国家安全観要義分析」『党政幹部論壇』2014年第7期、12頁他。

11 「習近平在解放軍代表団全体会議上強調 牢牢把握党在新形勢下的強軍目標」(2013年3月11日)http://news.xinhuanet.com/2013lh/2013-03/11/c_114985327.htm(最終閲覧:2015年7月24日)。

12 「新安全観」(新安全保障観)の意義や背景については、高木誠一郎「中国の『新安全保障観』」『防衛研究所紀要』防衛研究所創立50年記念特別号(2003年)、高原明生「中国の多角外交-新安全保障観の唱道と周辺外交の新展開」『国際問題』2004年2月号(No. 527)を参照されたい。

13 任晶晃「新安全観:中国理論与実践路径」『社会科学管理与評論』2012年第3期。

14 「新型大国関係」については、高木誠一郎「中国は『新型大国関係』に何を求めているのか」『東亜』2014年1月号(No.559)を参照されたい。

15 習近平がこのワードを用いたのは、世界の軍事発展情勢と中国の軍事的イノベーションを議題とした第17回集団学習における講話においてである。「習近平在中共中央政治局第十七次集体学習時強調 准確把握世界軍事発展新趨勢与倶進大力推進軍事創新」『人民日報』2014年8月31日。

16 「習近平出席中央外事工作会議幷発表重要講話」『新華網』2014年11月29日、http://news.xinhuanet.com/politics/2014-11/29/c_1113457723.htm(最終閲覧:2015年7月24日)。

17 中央外事工作会議の分析については、高木誠一郎「中央外事工作会議と中国の対外姿勢」『東亜』2015年1月号(No. 571号)を参照されたい。

18 習近平は、例えば第18回党大会の期間中に、「我々はかつてない好機に直面しているのと同時に、かつてない挑戦にも直面しており、鍵は、我々がしっかりと機会を把み、沈着に挑戦に対応できるかどうかにある」と発言している。「習近平参加上海代表団討論時強調 認真学習深刻領会党的十八大報告主題 加深対関係全局的四个重大問題的認識」『人民網』2012年11月9日、http://politics.people.com.cn/n/2012/1109/c1024-19529896.html(最終閲覧:2015年7月26日)。

19 「習近平在中共中央政治局第十四次集体学習時強調 切実維持国家安全和社会安定為実現奮闘目標営造良好社会環境」『人民日報』2014年4月27日。

20 範長龍「為建設一支聴党指揮能打勝仗作風優良的人民軍隊而奮闘―学習貫徹習主席関於党在新形勢下的強軍目標重要思想」『求是』2013年第15期(2013年8月)。

21 李黎は「国際戦略構造の変化と我国の総合国力の不断の上昇に伴い、我が国の安全戦略の重心は生存利益を維持することから発展利益を維持することへと移り始めている」と書いている。李黎、前掲論文、12頁。

22 習近平の対外政策における積極性・主動性については、山口信治「習近平政権の対外政策と中国の防空識別区設定」『NIDS NEWS』2014年8・9月号を参照。

23 「習近平出席中央外事工作会議幷発表重要講話」『新華網』2014年11月29日、http://news.xinhuanet.com/politics/2014-11/29/c_1113457723.htm(最終閲覧:2015年7月24日)。

24 ここで言う「総合国力」とは、国家のパワーを軍事力のみで評価するのではなく、経済力や科学技術力を含めたパワーの総体として捉えようとするもので、毛沢東時代の国防建設偏重を脱し、経済発展へ邁進しようとした鄧小平によって1980年代に唱えられたものである。「鄧小平国家安全思想対習近平総体国家安全観的啓示」『学理論』2015年第4期、6頁。

25 例えば劉慧、趙暁春、前掲論文、9-10頁、孟祥青「設立国安委:有効維持国家安全的戦略之挙」劉慧他編『国家安全藍皮書 中国国家安全研究報告(2014)』社会科学文献出版社、2014年、131頁等を参照。

26 李黎「総体国家安全観:中国特色国家安全新理念」『党政論壇』2015年3月号、15-16頁。