コラム

気候変動交渉は何処へ行こうとしているのか?

2013-08-05
西村六善 (日本国際問題研究所客員研究員)
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・現行制度は温暖化を防止できるのか?

欧州委員会は最近パブコメで欧州市民に対して次のように質問している。「現行の任意誓約制度では2℃等の目標達成は出来そうにないが、どうしたら良いか?」 欧州委員会が現行の国別削減方式の欠陥を意識していることを示している。それは当然だ。何故なら、元来は僅か5%の削減用(注)に作られた仕組みで当時は想定されなかった「ギガトン・ギャップ」を抑え込もうとするのだから…

(注)京都議定書第3条第1項では、先進国の温室効果ガスの排出を2012年までに5%削減する(1990年比)ことを目標とすると云う趣旨が書かれている。
  ギガトン・ギャップと何か….国別削減誓約の総合計と2℃実現へのパスとの乖離

  Climate Action Tracker のHPより転載。http://www.climateactiontracker.org/

然し、現在進行中の交渉では結局このギガトン・ギャップを国別削減方式で解決することになりそうだ。若干の修正はあるが、従来通り政府が責任をもち、規制や政府介入、誘導政策や財政支援を使いながら、自国の排出を削減すると云う基本形は変わらない趨勢だ。また、先進国は歴史的に過剰に排出したと云う立場から「成長への衡平性」を求める途上国の要求は依然として強い(注)。

(注)交渉の過程では有力な途上国は、EASDと称して先進国の歴史的責任を支払わせる形で先進国の今後の排出量を制限し、それを途上国に分配すると云う極めて管理経済的な思想を持ち込んできた。筆者は2013年3月ケープタウンでのBASIC諸国の会合でそのような管理経済は世界経済を害すると強く主張した。歴史的責任は別の方法で対応するべきで、過去150年の先進国の行動が今日の温暖化の原因の一部であるにしても、世界経済の重要な一部を管理経済の下に置くことは許されないと論じた。その後、この思想は排出量の分配と云う強硬な措置から若干ニュアンスを変え、「衡平性参照フレームワーク」(Equity Reference Framework)と云った概念に展開し、国別削減量を決める時の指標の一つとして参照されると云う展望が生まれている。
一方、2℃等の目標達成はどうなるのか? それが実現する可能性は依然不確実だ。どうやら、交渉の場で「相互指弾」のようなことが行われそうだ。要するに他国の削減量を少なすぎるとして槍玉に挙げ、相互に糾弾しながら全体の削減量の引き上げると云うことだ。科学的要請が実現するかどうかは「外交闘争」次第だと云う状況だ。
・何故国際協力は旨く行かないのか?

しかし何故、交渉はこれ程、難儀するのか? 答えは単純だ。仕組みが問題と整合していないのだ。冒頭に述べたように、元来はごく小規模の削減を実現する仕組みでとんでもなく膨大な削減をしようとしているからだ。

何よりも、総量管理をしていないことは非科学的だ。2℃等を達成するなら、全球で排出できる総量(その裏腹の関係にある全球総削減量)を明示した上でどうするかを決めなければならない。更に、政府の野心で自国の排出量を削減すると云う基本戦略も非科学的だ。何故なら政府の野心は「恣意的で自発的」なので各国の野心を合計しても科学の要請に何ら合致しないからだ。その上、政府が不用意に野心を上げると自国の企業が他国の企業に敗北する危険がある。だから政府は野心を上げようとはしない。大規模な削減をするにしては矛盾した構図だ。

過去数年間数えきれない多くの世界的指導者が「野心を増大して地球を救おう」と叫んできたが実際は「野心の失敗の連続」の歴史であった。だから最後は「相互指弾による外交闘争」で解決しなければならない訳だ。
・どうしたら良いのか? 総量管理と炭素価格

問題は「相互指弾による外交闘争」でも2℃等の目標は確実には実現しそうにないことだ。だから本当は「政府の恣意的な野心」によらない解決を探求するべきだ。最も確実性が高い解決は総量管理だ。世界中で一定限度以上は排出出来ない仕組みを作ることだ。政府の野心で国ごとに削減するのではなく、寧ろ一定限度まではどの国の企業でも自由に排出できるようにする訳だ。国別削減とか野心と云った概念を取り払い、限度内であれば、何処の国の企業も自由に排出できると云う仕組みにするのだ。

なお、国別削減を継続するが技術革新と効率改善に集中するべきだと云う議論がある。しかし、効率の改善だけでは生産量が増えれば帳消しになる。どうしても2℃等を実現しようとするなら総量管理が必要になる。仮に3℃で喰い止めようとする時でも総量管理は必要だ。

総量管理の条件は揃っている。2℃実現が目的だとすると今後世界中で排出できるCO2の量(炭素予算)は科学によって数値的に規定されている。要するに炭素予算は有限資源なのだ。有限資源の有効利用は市場しかできない。だからこの有限資源を政府間会議の所有物として市場で排出権として売却する。排出権なしの化石燃料の燃焼を禁止すれば2℃が実現する。市場の機能が働き、最も費用効果的にそれが実現する。売却益を途上国に廻すと途上国の低炭素持続成長を同時に実現できる。確実に2℃を実現し、同時に途上国の貧困脱出も実現する。国別削減量を巡って「相互指弾外交」をする必要もなくなる。一石二鳥の確実な解決はあり得る。

何故これが最も費用効果的なのか? それは炭素の排出に世界共通の価格がつくからである。2℃を実現する為のコスト(炭素価格)が世界共通になる。有限資源が枯渇して行くにつれて炭素価格が上昇するので企業も消費者も化石燃料の使用を効率化するか止めると云う行動に出る。化石燃料を使用する時の損得勘定が明白になるからだ。技術革新も価格が存在して初めて目的に適合した技術投資が行われる。無駄な投資や過少投資は無くなる。価格が同じなので、市場での競争原理が働き、全球的には最もコスト安く2℃を実現できる。

CO2の排出に値段を付けようとする考え方は、以前から世界的な専門家、経済学者がこぞって主張してきた主流的議論である。目新しいものではない。最も典型的なものはエール大学のノードハウス教授の次の文章である。1

「…二酸化炭素の排出は社会的被害をもたらすと云う点で外部不経済である。それは現在市場では対応されていない。人々は排出の現在と将来のコストを支払っていないので、市場の失敗である。経済学が政策当局に対して一個の勧告をするとするなら、全ての人々がどこにおいても、そして無期限に、炭素の使用が齎すべき社会的コストを反映した市場価格を支払うようにするべきだと云う点だ。そうすることで市場の失敗を是正するべきだ。」

世銀、IMF, OECD等の国際機関の中心的議論も「炭素価格論」である。最も典型的なものは”OECD Environmental Outlook to 2050”である。世銀は国別の排出権取引制度の世界的展開を推進し、それらを連結(リンクと称されている)することで炭素価格を全球化させようとしている。このように、現在学者、専門家の大勢は、炭素価格による解決を主張している。排出にかかるコストを明示し、それを汚染者に負担させてこそ低炭素化への大きなダイナミズムが生まれると云う思想である。それの方が大きな浪費を誘発する政府責任制度より遥かに賢明だと云う思想である。
・国別の炭素市場が多く生まれる傾向

今日、このような傾向を反映して、国別の炭素市場がいくつも生まれている。既に世界のGDPの3分の1は何らかの炭素市場でカバーされている。国連の交渉で国別削減量が決まれば、更に増えるだろう。そしてそれらが連結(リンク)されて行くだろう。何故なら、そうする方が安価に排出削減が出来るからだ。こう云う傾向が強まれば排出コストは次第に収斂する。と云うことは世界でかなり近似した炭素価格と云うものが生まれて来る。

しかし、この場合、合計した国別削減量が科学の要請に届かなければ2℃等は実現しない。2℃等を実現しないような国際的努力の総コストを幾分下げたところで無意味だ。世銀は最近はそこを問題視している。炭素価格は温度目標と整合しているべきだと論じ始めている。2


1.Prof.William D. Nordhaus, “Economic Issues in a Designing a Global Agreement on Global Warming” Keynote Address Prepared for Climate Change: Global Risks, Challenges, and Decisions Copenhagen, Denmark March 10-12, 2009 http://www.econ.yale.edu/~nordhaus/homepage/documents/Copenhagen_052909.pdf
2."Mapping Carbon Pricing Initiatives: Developments and Prospects" World Bank. Washington DC May2013のExecutive Summary の結論部分。