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1.はじめに
(集団的自衛権と集団安全保障)

 今日東アジアでの激変するパワーシフトの進行に対して日本の安全と繁栄の礎となる“狭い意味での安全保障(国防)”体制、つまり、(集団的)自衛権の強化と関連する安全保障環境の整備は時の政権にとっての最大かつ喫緊の課題となっている。かかる認識の下で、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」の報告書が先般発表され、それを受けて進められてきた集団的自衛権に関する諸問題をめぐる政府与党間協議が合意に達し、閣議決定が行われた。今後政府による関係法令の改正準備が行われ、国会での関連法案の審議を通して、広く国民世論を含めた、与野党間の論議が交わされることになる。
 本稿では、集団的自衛権をめぐる論議にも関係する“広い意味での安全保障(国連を中心とした集団安全保障)”を考える際に日本国内ではあまり論じられていない冷戦終了以降の国連を通じて国際社会の基調となった“国際社会の平和と安全”に関する思潮と行動に焦点を当ててその概略を紹介する。そのため、筆者は1994年にある雑誌に寄稿した拙論「人権外交こそ日本の生きる道(原題は「人道外交の奨め」)」を改めて読み返し、再考した結果、この小論をベースにして論ずることとし、加筆、削除および修正を施した。そこには、「正義のある平和」、或いは、「人道、人権問題の挑戦」等の標語で表現され、また更には、1948年の世界人権宣言の採択にまで遡る1、国連憲章に盛り込まれた普遍的な諸価値の実現に向けた歴史的な試みが看てとれよう。
 それによって、読者が上述したテーマについての理解を深め、各自の立場を形成することができ、本稿がその一助として資することになれば、筆者としては誠に幸甚である。

(ポスト冷戦時代の風景)
 冷戦終了直後のことであったが、当時冷戦終結を転機にして「人権」という言葉がマスコミに頻繁に登場するようになったとのオピニオン雑誌の記事が筆者の目にとまった。ある有力紙の紙上に登場した「人権」の頻度は、1989年以前は年数百回であったが、それ以後は1千回から1千5百回に増加しているという。冷戦の終焉は民主主義、人権の尊重、市場原理の勝利を象徴するものと総括されるが、ポスト冷戦時代にあって紛争の形態が「国家と国家」の間から「人と人」の次元のものに変化したことも注目された。また、リアル・タイムによる情報伝達が世界的な規模で可能となった結果、その残忍性が暴露されるなかで、人権ないしは人道的な諸価値が新たな秩序、枠組み造りの過程でますます重要な要素とみなされた。そのため、クリントン(Bill Clinton)政権になったアメリカの外交政策には、人権の尊重を伸長し、民主主義の浸透をはかっていくことが安全保障の確保にとって最良の戦略であるとするリベラルな考え方が勢いを得てきているとの指摘も見られた。
 将来の紛争の原因に関して衝撃的な問題提起をしたサミュエル・ハンティントン(Samuel Huntington)の論文『文明の衝突(The Clash of Civilizations?)』がフォーリン・アフェアーズ誌に掲載されたのもこの時期であったが、当時の国連のロビーでも大きな話題となったのを筆者は記憶している。ハンティントンの主張するところを要約すれば、世界政治は新時代に入ったとの認識に立ち、今後の国際政治をめぐる紛争の原因は、それまでの経済的な利害対立やイデオロギーのそれに起因するのではなく、文明的な要素、言い換えれば世界の諸文明の間の衝突に拠ることになる。特に、このような文明対立の構図は、「西欧」対「非西欧」の対立(古い東西対立)への回帰を予言している。そして、その中で、日本については準西欧化しているが、西欧文明とは異なるものと分類している。同論文を読み終えて感じたある種の居心地の悪さは、日米の間が経済関係を中心に必ずしもしっくりしていない当時、歴史的な事実認識としてはそれとしても、その違いを強調することの背後にある政策意図からくるもののようであった。
 ポスト冷戦時代の国際社会においても、日本として引き続き、世界の主たる潮流を担うことになる「先進工業民主主義国」の一員として積極的に国際協調に努めていくことが、日本の繁栄のみならず、国際社会の安定のためにも不可欠であるとの認識は、当時外交政策のレベルでは既にコンセンサスが見られ、殊更ここで改めて繰り返すまでもない。そのためには、かつての冷戦下での「ソ連の脅威」という接着剤が消失したことから、これら諸国との間で共有する理念ないしは価値体系を堅固なものとすることが日本の外交戦略の要締とされた。その意味で、欧米諸国が歴史的に重要視してきた人権、人道の分野が格好の外交課題となることについては論を俟たない。しかしながら、問題はこれを如何に具体的な形で確保、実現していくかである。

2.国連の復権と「正義のある平和」
(「期待喪失の危機」から「期待過剰の危機」へ)

国際社会がポスト冷戦の時代に入る中で、「国連の復権」が言われはじめた時期に、筆者はたまたまニューヨークに在勤した。国連総会でも、安全保障理事会の議席拡大の問題をはじめ、PKO活動の見直し、経済社会活動の機構改革、それから後で触れる人権高等弁務官の設立、国連システム全体としての人道支援の強化等をめぐり、活発な議論が行われた。これらは、冷戦後の国連がその主要分野でリーダーシップを発揮するための試みでもある。ブトロスガリ(Boutros Boutros-Ghali)(当時)事務総長の言葉を借りれば、国連は冷戦下での「期待喪失の危機」を脱して、一転して現在「期待過剰の危機」に直面するようになったとされる。更にまた、同事務総長によれば、国連は「歪曲の危機」に晒されているという。1993年ソマリアでのUNOSOM-II(第二次国連ソマリア活動)による平和執行が危機に逢着した時に、連日CNN他のメディアが現地からの映像を駆使して、その活動を強く批判したことは記憶に新しい。その際、“国連全体の諸活動の中での比重としては20~30%にすぎない”平和維持活動(PKO)をもって、国連活動のすべてが判断されるかの如きマスコミの報道姿勢に対して、硬骨漢の事務総長が見せた強い反発がこれであった。

(「正義ある平和」と一国平和主義)
 ポスト冷戦時代になり、核を背景にした東西対決による緊張から国際社会が解き放たれた結果として、世界各地で地域紛争、民族・宗教等に起因する対立が頻発し、これらの手に負えない紛争、対立の多くが国連の場に持ち込まれた。ワシントン・ポスト紙は、このような国連を「駆け込み寺」にたとえたが、これを端的に示すかのように、安保理での審議活動はその後も目まぐるしい。
 冷戦終了後、国連による平和と安全の問題に対する取り組みがこのように活発化した中でその特徴として挙げられるのは、平和の中身が問われるようになったことである。波多野敬雄元国連大使は、「正義のある平和」と「正義のない平和」を区別して、国連では「正義のある平和」が重視されるようになったと指摘する。実際、国連としてそのために、湾岸戦争やソマリアでの平和執行にみられるように、武力の行使をも辞さない構えを見せたが、それは、国連が普遍的な国際機関であることと関係している。ブトロスガリ事務総長は、国連が座視すべきではない紛争として、世界の平和と安全に直接関わる国家間紛争の他に、国際社会を支える基本的原則や法の支配を崩すような、例えば、武力による領土の併合や人類的な基本価値を踏みにじるジェノサイド等を挙げたが、「正義」の一つの解釈として、人道、人権問題の重要性(ヒューマニティの尊重、確保)がここにうかがえる。しかしながら、現実の世界はきわめて複雑である。旧ユーゴでは民族相互の間の憎しみから制御不可能になりかけている事態の展開を前にして、国連としては、あくまで「最終的な形の平和(秩序の維持、安定)」について何らかの妥協をするか厳しいジレンマに陥った。
 この点で対照的なのは、戦後一貫して「一国平和主義」に慣れ親しんできた日本人にとっての“平和であることが何にも増して重要である”とする感覚である。ともすれば孤立主義にも通じかねない、このような平和感覚に過去半世紀近くの間親しんできた国民が、要すれば武力の行使をも辞さない「国連の求める平和」に対して果たしてどの程度理解を示すのかは、日本の国連外交の根幹、国際貢献に関わる問題だけに、引き続き今日的な問題でもある。
 戦後日本の政治が直面したこのテーマに対して真摯に向き合った政治家の一人で、またPKO法の成立に自らも尽力した宮沢喜一(当時)総理は、その座から降りた後で、以下のとおり、自らの思索について語る2。戦前の時代を経験し、戦後の政界で一貫して穏健リベラルな立場をとってきたその経歴に照らしても、筆者には非常に刺激的である。

「欧米諸国には自由とか革命、独立のために血を流してきた歴史がある。そのような欧米人から見ると、戦後の日本人の生き方は、平和を唯一最高の価値として、たとえ自由や独立のためですら、戦うことは悪だとみなしてきたと映るのである。 ...たしかに戦後長い間、日本人はそのような考え方をしてきた。 ...それに対して「どんな場合にも平和は至上の価値なのか」という問題を提起したい、と私が思ったことはこれまでに何度もあった。それにもかかわらず思いとどまってきたのは、次のような心配があったからである。かつての日本は「天に代わりて不義を討つ」と称して中国をはじめアジア諸国へ出兵した歴史を持っており、戦後の平和主義はそれに対する反省から生まれたものである。そのような背景のある平和主義にたいして、うかつに批判を加えると日本は戦前の失敗を再現するところまで突っ走ってしまうのではないか、という不安がある。そのために私たちは、日本人はエコノミック・アニマルだとか、フリー・ライドとかいった批判に対して、今日まで甘んじてきたのであった。」
さらに、宮沢元総理は、PKO法の成立をうけ、国連憲章が想定した(普遍的な)集団安全保障に関する自らの見識についても次のとおり、述べる。
「平和を追求することは、だれも異論はないが、ただ、国際社会の公正をみだす行為にたいして、自分の損にならないかぎり、知らぬ顔で座視してはばからないということには、国際社会の一員としてどこまでそれが許されるかという問題があろう。...私はそこでもう一歩進めて、少し理想に過ぎる考え方かもしれないが、かりに将来、国連常設軍がつくられる場合、日本はどのようなことができるかを十分に議論すべき時がきていると思う。それは「血」の問題にたいする回答をさぐる作業でもある。...今後、国連がそのように育っていけば、私たちが長い間悩んできた「武力と平和」の問題にようやく一つの解決の道が開けてくるのではないか、と私は考えている。湾岸戦争が終了したいま、私たちはこの問題をつきつめて考えてみてはどうだろうか――そのことを私は模索している。」

3.人権、人道問題の挑戦
(人道、人権分野の政治化: ニューヨーク、安保理、PKOへの傾斜)

 冷戦終結後の国際社会において紛争解決のために国連が果たす役割に対して期待が高まる中で、PKOは質、量共に拡大する傾向にある。安保理は、1988年以降の数年間だけで、それまでの四十年間に設立された件数(13件)を超える18件のPKOの設立を決議したが、1994年5月末の時点で展開中の16件のPKOには68ヵ国から7万人の軍事、非軍事要員が参加している(筆者注:2014年現在では、16件のPKOがアフリカを中心に、兵員、文民警察併せて10万人の人的規模で展開されている。2014年度のPKO予算は71億ドル)。そこで顕著なのは明石康(当時)旧ユーゴ問題事務総長特別代表が指摘するように、“より複雑で、大規模な内政介入型のPKO活動が、国家としての機能を失った国の立て直しのために要請されるようになってきた”ことである。そのために、PKOは停戦の監視、停戦ラインの維持等の伝統的な枠を超えて、選挙、人権の監視から人道支援の実施の確保、更には政治和解の促進等、新たな内容の任務を付け加えてきている。ブトロスガリ事務総長は、国連が「第二世代のPKO」を造りはじめたとして、カンボジアで成功した包括的な和平活動が質的、量的二つの意味でますます重要になろうと述べている。
 更に、安保理は「正義のある平和」を確保すべく、国際人道法の領域にも関心を向ける。安保理は、戦下のボスニア・ヘルツェゴビナに燎原の火の如く広がった民族浄化、婦女子に対する集団による凌辱行為等の人道法の違反を処罰するために、1993年5月、国際刑事裁判所の設置に向けて積極的なイニシャティブを取り、全会一致で決議827を採択した。それを受けて、9月に総会で判事の選出が行われ、その結果、第二次大戦以来の国際法廷が設けられることとなった。もっとも、国連がかかるイニシャティブを採った背景には、ボスニアでの紛争に引き続き介在していくためのギリギリの選択を迫られた事情が認められた。
 このように、かつては中立性、非政治性を厳守してきた人道支援、人権の分野が平和と安全の問題と密接に絡んで、政治的な文脈でしばしば扱われるようになってきた。その中で、人道、人権に関する国連の活動がその安全性、実効性を求める結果として、ニューヨーク、安保理、PKOへの傾斜を強くしているのも特徴的である。関係者の間でよくいわれるところの“安保理による人道、人権問題のハイジャック”現象である。しかしながら、これに対して、主権侵害、内政干渉につながることを怖れる途上国の中からは概して冷淡で、警戒的な反応がみられた。
 この間、人道、人権の分野においても、新たな国際秩序づくりの試みの一環として、国連のリーダーシップ強化のための努力が続けられた。国連の緊急人道支援の強化を目指して、第46回総会で採択された決議46/182と、また、第48回総会において最終的にコンセンサスで採択された人権高等弁務官の設立に関する決議48/141がこれである。この二つの動きをめぐる背景について以下簡単に触れることとしたい。

(総会決議46/182)
 UNHCR(国連難民高等弁務官)、ユニセフ、WFP(世界食糧計画)他の諸機関から成る国連システムによる緊急人道援助の強化が強く叫ばれるようになったのは、1991年はじめの湾岸戦争終了直後に起きた北イラクでのクルド支援の際に露呈したこれらの国連諸機関の初期対応の拙さからである。英独両国のイニシャティブでその年のロンドンでのG7サミットで政治宣言の中に取り入れられ、同年秋の国連総会で決議(A/RES/46/182)として採択された。これを受けて、翌春、ブトロスガリ事務総長は、同決議の作成作業に終始たずさわってきたスウェーデンのイアン・エリアソン(Jan Eliasson)3国連常駐代表を緊急人道支援調整官(人道問題担当事務次長)に任命し、併せて本部事務局に人道問題局(the Department of Humanitarian Affairs: DHA)を新たに発足させた4
しかし、同組織に期待された調整能力の強化によって、国連システム全体の緊急人道援助が果たしてどの程度まで向上したのかについては、ニューヨークおよびジュネーブの国連および各国関係者の間で大きく意見が分かれた。また、ソマリアでのオペレーションをめぐり、“本来、人道支援のための安全確保がその目的であったのに、軍事的な活動が自己目的化して、その結果、1ドルの人道援助のために10ドルの軍事費を使っている”と公に批判したことから、事務総長との不仲を噂されてきたエリアソン事務次長は1994年1月末に辞任し、前途多難を見せつけた。その後の後任選びは、この面での経験と見識を備え、国際的にも名の通った強力な政治指導力のある人物ということで、幾人かの西欧の閣僚クラスの名前が取り沙汰されたが、結局、同じ北欧出身のピーター・ハンセン(Peter Hansen)前グローバル・ガバナンス事務局長が任命された。しかしながら、イラク、アフガニスタンにはじまり、旧ユーゴおよびアフリカ全域、更にNIS(旧ソ連邦)諸国等、世界各地で多発する緊急事態に対して国際社会が効果的に対処するためには、国連システムの強化が必要だとする点についてはその後も加盟国間に強いコンセンサスがみられた。
 決議46/182成立以後、急展開する国際情勢は、同決議が予想しない形の事態を呼び起こし、その方向に人道支援活動を引張って行った。その結果、ソマリアや旧ユーゴに見られる通り、緊急人道支援活動が、大きな和平のプロセスの中で政治交渉やPKO活動と有機的に結び付いて、相互に補完的な、重要な機能を果たすようになった。ブトロスガリ事務総長は、人道支援の位置付けに関して、1991年6月に提唱した『平和のための課題(An Agenda for Peace)』のなかで、予防展開におけるその役割に言及したが、更に、1992年6月の報告書では、様々な事態の展開の結果、人道支援に対する需要が高まってきていると指摘する。そして、その活動が予防外交、紛争の早期警戒、国際社会の平和と安定に密接に絡んでおり、また、事実調査、紛争および緊急事態の防止、更には平和の創出(peace-making)、平和の維持(peacekeeping)および平和の構築(peace-building)にかかわっていると述べた。人道支援自体は、それに内在するヒューマニズムの思想に基づいて、国際社会が国連を通じて被災国(民)に対して送ることの出来るメッセージである。ソマリアのような場所では、秩序の回復に手を貸し、政治和解を促すための潤滑油の役割を果たすことも期待された。ただし、旧ユーゴで援助実施機関の間のとりまとめ役を務める緒方貞子(当時)難民高等弁務官は、人道支援の限界について見透した上で、政治和解のための努力の不調ないしは不在のツケが人道支援の面にしわ寄せされることに対しては常に批判的、警戒的であった。

(国連人権高等弁務官の設立)
 1992年6月、第二回の世界人権会議がウィーンで開催された。国際社会が新たな秩序、枠組みを模索する中で、1968年にテヘランで開かれた第一回会議をうけて四半世紀振りに開催されたこの世界会議は、今後の人権問題に対する取り組みの方向付けに決定的な影響をもたらすものとして各国から大きな注目を集めた。
 ポスト冷戦時代に入り、逆に地域紛争、民族対立の激化によって、旧ユーゴに見られるような人権侵害の多発を強く憂慮した先進国側は、改めて伝統的な自由、人権の擁護とそのための実効的な手段の確保に重点を置いた。これに対抗して、欧米主導の人権介入を警戒する途上国の方は、むしろ「発展の権利」等、所謂「第三世代の人権」といわれる国際的な経済・社会権の伸長に比重を置いて対立姿勢を強めた。人権をめぐっての国際的な価値観の分裂は今回がはじめてではなく、国連の発足直後にさかのぼる。サンフランシスコでの国連創立会議で、ハリー・トルーマン(Harry Truman)米大統領が国際権利章典を作成するように提唱したのをうけて、1948年の総会で世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)が採択されたが、その審議の過程で、既に西欧諸国と共産圏諸国との間で激しい議論が交わされた。
 冷戦イデオロギーの消滅した後も、人権をめぐる論争は再燃して、新たな「南北対立」の様相を呈した。これに関連して、ハンティントンは『文明の衝突』に寄せられた批判に対する反論を試みた中で、ウィーン会議における、「文化的相対主義」を批判する西欧諸国と「西欧の普遍主義」を拒絶するイスラム・儒教国家の間の対立を、文明のパラダイムで説明できる具体的な事例として挙げた。第48回の国連総会でも、ウィーン会議で決着を見ずに持ち越された人権高等弁務官の設立をめぐって、中国、インド、マレーシア等のアジアを中心とする反対グループと、日本も参加した、西側先進国が主導する積極派との間で激しい論争が展開された。その結果、会期終了間際まで激しい駆け引きが行われたが、漸く両グループの間で種々の妥協、歩み寄りが成立して、人権高等弁務官の設立が決定された。
 人権高等弁務官構想は、かなり以前より唱えられてきたものである。旧ユーゴ他、世界の各地で恒常的に踏みにじられている基本的な自由や人権の侵害を前にして、国際社会がこれを座視せずに、その是正に積極的に乗り出すことが出来るようにとの願いから、現行の人権擁護システムの強化の切り札として、ウィーンでの世界人権会議の準備過程で再び提唱された経緯がある。特に、クリントン米大統領は第48回国連総会の一般演説の中で、その設立を強く訴えたが、その背後には、難民分野での緒方難民高等弁務官のダイナミックな活躍に刺激された米国内の人権団体による強い働きかけがうかがわれた。しかしながら、人権高等弁務官の具体的な活動内容がどのようなものになるのかは、実際のところひとえに将来の運用にかかっているとするのが当時の関係者の間の大方の見方であった。1993年2月、事務総長は、初代の人権高等弁務官に、本件設立に関する作業部会の議長を務めたエクアドルのアヤヤ・ラッソ(Ayaya Rasso)国連常駐代表を指名したが、加盟国の間で受け入れ可能な人選として、総会で承認された。

4.普遍的な価値の実現と規範創設の動き:「文民の保護(POC)」 と「保護する責任(R2P)」
(新たな国際規範の模索)

 筆者が、旧稿で人道、人権問題を一括りに問題設定をした当時(1993年)は、それぞれの問題の性質およびその解決のためのアプローチの相違からか、違和感を覚えるとするコメントがいくつか寄せられた。しかし、その後1990年代央、ルワンダ、スレブレニッアで起きた大虐殺からのショックから「保護する責任(the responsibility to protect: R2P)」論をめぐり国際社会の関心が21世紀にはいると高まりをみせたことは広く知られている5。これと並行する形で、20世紀末以降、もうひとつの試み、すなわち、「武力紛争下での文民の保護(the protection of civilians in armed conflict:POC)」に関する問題として人道、人権に関わる争点を一括りにして捉えたアプローチが、国際的な関心を集め、その下での国際社会の取り組みが本格化した。
 このような動きに関しては、国際法が専門の村瀬信也教授は、「1990年代以降、安保理が第7章の下で「立法、準立法機能」を担うことが次第に顕著となってきた」ことに注目して、「国連をとりまく新たな状況と密接に関係して、実際上の必要から推進されてきた方向性」であると述べる。その背景として、「破綻国家」の拡散傾向、つまり、国家が国家の体をなしていない国連設立当初には予期しなかった事態の展開があると論じる6
 また、人道、人権問題についてのオペレーショナルな面では、ジェノサイド防止担当の国連事務総長特別代表を務めるアダマ・ディエング(Adama Dieng)は、国連システムが過去20年間の教訓から学んで取り組んだ改良点として、以下の三点を挙げる。つまり、①深刻な人権や国際人道法の侵害につながりかねない事態に関する迅速、的確な情報の提供、②人びとの保護のために南スーダンでのオープン・ゲート(open-the-gates)に関する決定に現れた、本部での政策と現場での執行を統合した“ひとつの国連(one UN)”の実現、③事態を動かし、当事者に対しても影響を与えることのできる関係者の役割、特に地域機関(顕著な事例として、南スーダンで起きた虐殺調査のためのAU(African Union: アフリカ連合)の役割)、近隣国およびコミュニティ・リーダーからの支援、である。さらに、ディエングは、コストの点からも経費のかかる平和維持よりも予防にリソースを投入する重要性に言及し、安保理が“関係国の利益よりも人びとの利益を優先する(putting people before profit)”考えに沿ってタイムリーで、かつ断固とした行動をとることの必要性を強調する7。この点に関して言えば、確かに国連の理念の上からは正しい指摘ではあるが、そこには各国、特にP-5の思惑利害が複雑に絡むために、実際にはそうはならない厳しい国際政治の現実がある。
 国連が冷戦の終了後に、冷戦下では十分に果たし得なかった、憲章に盛り込まれた普遍的な諸価値の実現に向けて取り組んできた諸努力の中で、制度的な対応としては、前述の3.に加えて、国連人権理事会(United Nations Human Rights Council)への格上げと国際刑事裁判所(International Criminal Court: ICC)の創設が注目されるが、以下では、国際的な行動規範や法規範の創設に関係する動きとして、POCとR2Pに焦点を当てて取り上げる。

(POCをめぐる議論と具体化する対応)
 1999年2月に安保理ではじめてPOCに関するテーマが正式議題として取り上げられ、この問題を包括的に分析し、政策対応について勧告を付した事務総長報告書が同年9月に提出された8。それを基に安保理で討議された結果、文民の保護に関する安保理決議(S/RES/1265)が採択された。同決議は、紛争における最大の被害者が文民であることを初めて認め、特に女性や子ども、難民や国内避難民等の弱者グループ(the socially vulnerable)が被る被害に対する懸念を示した。ちなみに、20世紀に入り、紛争の形態の如何を問わず、文民の死傷率は上昇して、第一大戦では15%、第二次大戦では65%にうなぎ昇りとなり、その後の紛争でもそれを下回らないとされている。UNICEFの統計によれば、1980年代末で約90%、1990年代になると90%を超えると推測されている9。そして、同決議は、文民に対する被害が長期的な平和や復興および回復に多大な影響を及ぼすことを明記した。また、そのために、国際人道法、人権諸法および難民法に依拠した法的保護と武力行使をも視野に入れた物理的な保護、さらに、長期的な観点からは、紛争の原因となる問題の解決に向けた包括的な取り組みの必要性が強調された10
 その後も、安保理で採択された一連の決議、すなわちS/RES/1296(2000)、1674(2006)、1738(2006)、1894(2009)のなかでは、文民を意図的な攻撃の標的とすることに警告が出され、特に、組織的で、目に余る、広範な暴力は国際社会の平和と安全に対する脅威となる旨が規定された。
 さらに、「文民の保護(POC)」の対象として、安保理の討議では個々の社会的な弱者(the socially vulnerable)に対する保護にその関心が向けられた。その結果、2000年10月には「女性、平和、安全(Women and Peace and Security)」に関する決議(S/RES/1325)が採択され、そこでは紛争予防、紛争解決、平和構築における女性の役割の重要性が強調されている。また、子どもの保護に関しては、その前の1999年8月に決議1261が採択されたが、武力紛争下での子どもへの影響に深い懸念が示されると同時に、子どもの兵役徴用を強く非難している。2000年5月には「武力紛争における児童の関与に関する児童の権利に関する条約選択議定書(Optional Protocol to the Convention on the Rights of the Child on the Involvement of Children in Armed Conflicts)」が採択された11
 このような展開の中で、非政府武装組織を含む紛争当事者双方による国際法の順守、人道支援のためのアクセスの確保、(POCに違反する行為に対する)説明責任の強化と共に、事務総長のいう“文民の保護のための五つの中核的な挑戦”の一つである、国連平和活動(PKO)による保護については、1999年10月に発足した国連シエラレオネ派遣団(UNASMIL)のマンデート12にはじめてPOCが明記された。憲章第7章の下でこのようなマンデートを持つ“積極的PKO”は、2014年現在直近の安保理で決議された中央アフリカでのミッション(MINUSCA)13を含め、10件にのぼると報ぜられている14。また、自衛隊が参加している南スーダン(UNMISS)もその中の一つである。
 現場での実践では、PKOによるPOCの実現のために、①当事者間の政治対話、②武器使用による文民の保護の確保、③保護された生活環境の確立に向けた具体的な試みがなされてきた。しかしながら、最近の事務総長年次報告からはその実情を知ることが出来るが、そのオペレーションは決して楽観視できる状況にはないとし、その運用に大きな課題が残されているとの指摘は気懸りである15。さらに、国連の内部監察(the Office of Oversight Services)の報告16に拠れば、POCのマンデートは円滑な機能には程遠く、特に、運用上の問題点、すなわち、POCの確保のための武器使用を忌避する行動パターンが現場では定着化していると指摘されている。その改善策として、①不確定な事態に対する作戦を巧くコントロールする必要性、②具体的な活動を起こす際のPKO要員の任務の明確化、③PKOと人道支援活動団体との協働作業関係の改善から成る、三つの勧告が提示された。上述した“ひとつの国連(one UN)”の実現もその改善策のひとつであろうが、そのためには関係者(派遣国、受け入れ国、安保理、事務局等)一丸となったさまざまな努力が求められよう17
 また、国連大学とグリフィス大学(オーストラリア)の共同研究は、この「文民の保護(POC)」と「保護する責任(R2P)」を対をなす二つの原則と捉えて、この二つの原則の間に見られる一致、重複、緊張、離反する部分についての規範的、制度的、運用的な分析をした興味深い報告書を発表している18。同報告書によれば、その違いについて、POCが個人に対するさまざまな暴力行為を取り扱うのに対して、R2Pの方は特定のタイプの大量虐殺行為に焦点を絞っているのが特徴である。また、POCについて、武力紛争に関連した、国際人道法の規制の対象となる“狭義の文民の保護(Narrow POC)”と、武力紛争に限定されないより広範で、深刻な、無法状態の暴力がからむ“広義の文民の保護(Broad POC)”に分類する。差し詰め、国際社会から強い懸念が表明されているナイジェリアで起きたボコ・ハラム事件は、後者に該当しよう。さらに、R2Pと“広義の文民の保護”について言えば、両者とも国際法との関係を持ってもそれ以上の広がりをもつ用語とされ、特に後者の“広義の文民の保護”についてその対象となる領域は広範に及ぶと指摘されている。POC(さらにはR2P)に求められる公平性、中立性、非政治性についても、実際のところは、人道支援活動、PKO、安保理の関与次第によっては、差異が出てくるとの指摘は興味深い。同報告書は、R2PとPOCの類似点と相違点を理解した上で上手な使い分けをすることが重要であると結論付けている。

(膠着したR2P論争と打開の手掛かり)
 2014年2月に発表された米ブルッキングス研究所の政策ペーパー19は、R2Pが国際的に認知されてからの8年間を以下のとおり総括する。すなわち、一方で、ケニア(2007年)、コートジボアール(2010年)やリビア(2011年)での成功例に着目しつつ、他方では、シリアに加え、スーダン、さらには中央アフリカでの困難な状況を取り上げて、その将来を左右する決定要素として三つのシナリオの行方を挙げる。①将来起こりうる個別のケースでR2Pに反対する諸国からも支持を獲得することのできる外交的戦略はあるのか、あるいは、②ブラジルが提唱したが、その後撤回したRWP(Responsibility While Protecting)20を再度蘇生することはできるか、また、③憲章7章の発動と結びついたR2P決議が安保理で一旦拒否されたにも拘わらず、その後(コソボの時のように)人道的介入のために武力行使を用いる場合に国際社会から支持をされる条件は何か、である。
 筆者がこの問題を考える上で強い関心を抱くのは、今日みられる人道的介入の思想的、制度的な起源とされる19世紀のそれを論じたゲアリー・バス(Gary Bass)の労作Freedom’s Battleである21。というのは、同書の中で著者は、西欧列強間の緊張を孕む19世紀のリアル・ポリティークの下で展開される人道を目的にした軍事的な介入が国際的な危機の拡大につながらないように外交努力が果たした役割について詳述する。そして、人道介入する国家がそのために順守すべき“自己抑制”の技法についてはすでに出来上がった外交的な慣行があるとして以下に言及する。つまり、①軍事展開に関する期間や規模を限定化し、②人道介入の結果生じた状況を管理するための多国間協調に加え、さらに、③列強間であらかじめ“人道的な関心地域(spheres of humanitarian interest)”を決めておいて、そのなかで特に現地事情に通じた域内の近隣諸国の参画を確保することによって、介入の正当性を高めると同時にその侵略的性格を薄めるだけでなく、当該国家に対する強制的な影響力の行使をも容易、安価にする実践である。
 また、サイモン・チェスターマン(Simon Chesterman)は、国連憲章第7章下での武力行使が実態上は兵力提供国に任せ切りで、謂わば“丸投げ(passing the baton)”状態にあることを指摘する22。確かに、そのことが、R2Pの実践が安保理の決議を経て手続的には“合法的”であっても、リビアのケースでも明らかなとおりの運用上の問題を引き起こす原因のひとつになっているといえよう。チェスターマンによれば、憲章第7章に依拠して、“国際社会の平和と安全を回復するために必要なすべての手段を行使する権限を安保理が関係国に与える( ... the Security Council authorizes Member States to use all necessary means …to restore international peace and stability …)”このお決まりのフォーミュラは、第一次湾岸戦争の際の安保理決議678(1990)にはじまるとされる23。そこには四つの特徴、すなわち、①武力行使をする(あるいは財政支援をする)関係国の意思に依存し、②何時、どのように目標が実現されるかの決定が当該関係国に任され、③安保理の関与については定期的な報告を受けるだけに限定され、さらに④委任事項に関する終了の仕方についての規定も存在しない、がみられる。つまり、安保理が自ら認めた武力行使についてそれを監視するための決定を怠ったり弱めたりした結果生じた“裁量権の移譲”である。R2Pの実践化のためにブラジルが提案したRWPの狙いはまさにそのことに対する大きな挑戦であり、さらに言い換えれば、本来国連憲章に想定された“規範的な”集団安全保障と実際に上述の権限委譲によって積み重ねられた実践の間に生じたズレを修正する試みと見ることもできよう。現在行き詰まっているR2Pに関する議論を将来に向けて打開するための、非常に困難ではあるが、突破口となりうる大きな争点のひとつであろう24
 最後に、R2Pの規範化に向けての今後を考察する際に、マーサ・フィンネモア(Martha Finnemore)らの提示する仮説的モデルは、筆者には魅力的である25。それに従えば、新しい国際規範の成立にはそれに必須とされる“ブレークするポイント(a tipping point)”や“雪崩(cascade)”現象のプロセスの到来が想定されている。そのようなダイナミズムを演出するのが国内規範と対外規範を結びつける“規範創設者(norm entrepreneur)”の役割である。これに関して筆者が注目するのは、2012年2月に安保理に提出された“シリアの治安勢力による市民に対する重大かつ組織的な人権侵害を非難する”R2Pを援用した決議案に対して、ロシアや中国から距離を置いて、賛成に回ったインドやブラジルの投票態度の変化である。しかしながら、同決議案は前(2011)年10月に提出された同趣旨の決議案と同様に、ロシア、中国の拒否権によって否決された。ジャーナリストのジェームズ・トラウブ(James Traub)は、西側の規範に対してよりオープンなブラジルは勿論のこと、特にインドに関して、国内世論がそれまでの主権擁護に凝り固まった国家の論理を突き破った事例として注目し、IBSA諸国が西側民主主義国と同様の行動パターン(“policy responds to public opinion”)を身につける将来の可能性に言及する26
 いずれにしろ、条約法とはいえない2005年の合意文書により各国首脳によって認められたR2Pには、政治的規範としては兎も角、法的規範としての地位を高める必要性がその課題として残されている。そのためには慣習法化するためのプロセスを経る必要性があり、このことに照らしても、さらなる実践(operationalization)の中での具体的な判断と行動結果の積み重ね、収斂が引き続き大きな意味を持つことになろう。


*筆者は現在、日本国際問題研究所客員研究員。前東京大学教授。2004-05 年、初代の駐東ティモール大使。
1 歴史的なパースペクティヴのなかで論じた参考文献の一つとして以下を参照願いたい。Michael Ignatieff, Human Rights as Politics and Idolatry, Princeton University Press, 2001
2 宮沢喜一『戦後政治の証言』読売新聞社、1993年
3 その後、本国に戻り、外務次官、駐米大使、外相を経て、2012年から国連副事務総長を務める。
4 DHAは、既に寿府に存在していた国連災害救済調整官事務所(UNDRO)を統合する形で発足したが、1997年には今度はDHAを再編成する形で国連人道問題調整事務所(OCHA)が設立され、現在に至っている。その間、明石康(1996-98年)および大島賢三(2001-2003)両氏が人道問題担当事務次長に就任した。
5 以下を参照願いたい。旭英昭『平和構築論を再構築する』日本評論社、2014年
6 村瀬信也「国連安保の機能強化」『国際問題』No.570(2008年4月号)
7 Adam Lupel, UN Adviser on Prevention of Genocide: “We Have to Make Sure the Security Council Acts”, IPI Global Observatory, April 28, 2014
8 Report of the Secretary-General to the Security Council on the Protection of Civilians in Armed Conflict (S/1999/ 957) :「POC(文民の保護)」と人道法で定義された「文民の保護」との相違については、『国連ジャーナル』2014年秋号に掲載予定の長嶺義宣(前赤十字国際委員会駐日代表)「「文民の保護」とPKO―概念と現状(仮題)」が詳しい。
9 Yahya Sadowski, “Think Again: Ethnic Conflicts,” Foreign Policy, Summer 1998
10  事務総長報告書(S/1999/957)の注6を参照願いたい。
11 筆者は、POCについての経緯、展開についは以下から引用した。田中極子「第14回 武力紛争下における文民の保護@PKOなう!」内閣府国際平和協力本部事務局サイト
12 (S/RES/1270 (1999))
13 (S/RES/2149 (2014))
14 「いちからわかる 国連のPKOルールが変わったの?」朝日新聞2014年4月29日付け。
15 (S/2013/689(2014))
16 (A/68/787(2014))
17 筆者は、長嶺義宣「「文民の保護」とPKO―概念と現状(仮題)」から多くの示唆を得た。
18 Hugh Breakey, Charles Sampford and Ramesh Thakur, “The Reality ofR2P and POC”, JapanTimes, December 5, 2012; Hugh Breakey, Angus Francis, Vesselin Popovski, Charles Sampel, Michael Smith and Ramesh Thakur, Enhancing Protection capacity: Policy Guide to the Responsibility to Protect and the Protection of Civilians in Armed Conflicts, UNU and Griffith University <http://isp.unu.edu/publications/files/R2P_POC_Policy_Guide.pdf>
19 Bruce Jones and Thomas Wright, The State of the International Order: Policy Paper No.33, the Brookings Institution, February 2014
20 注5を参照願いたい。
21 Gary Bass, Freedom’s Battle ? The Origins of Humanitarian Intervention, Knopf, 2008  
22 Simon Chesterman, Just War or Just Peace: Humanitarian Intervention and International Law, Oxford University Press, 2001
23 同上
24 注5を参照願いたい。
25 Martha Finnemore and Kathryn Sikkink, “International Norm Dynamics and Political Change”, International Organization, Autumn 1998
26 James Traub, “Will the Good BRICS Please Stand UP?” Foreign Policy, March 8, 2012: Raja Mohan, “Seeing Syria straight,”The Indian Express, February 11, 2012