コラム

『Global Risk Research Report』No. 7

イラク・クルディスタンの独立を巡る住民投票

2018-06-08
吉岡 明子(日本エネルギー経済研究所中東研究センター主任研究員)
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 2017年9月25日にイラク・クルディスタン地域において、イラクからの独立を問う住民投票が実施された。この住民投票を独立国家樹立に繋げるという当初の目論みは、その後のイラク国内外からの激しい反発によって潰えたが、投票結果からは多くの市民が独立国家を希求していることが示された。以下では、この住民投票実施をめぐるクルディスタン地域内の議論、住民投票の結果や様子、そしてその後、特にイラク国内からの強い反発を受けた背景を分析する。
 イラクのクルド地域では、1960年代頃から本格的な反政府ゲリラ武装闘争が開始され、1980年代まで断続的に武力闘争が続いてきた。その間にクルディスタン地域全域で政権から凄惨な弾圧を受けたことは、多くのクルド人の記憶に刻まれている。その後、クルドにとって1991年の湾岸戦争が転機となった。クウェートからの敗退、国内の反政府暴動などに直面して統治力が弱体化していたイラクのフセイン政権は、北部のクルド人の集住地域から軍を撤退させ、そこが事実上、クルド人の自治区となった。2003年のイラク戦争後、クルド政党が積極的にイラクの民主化プロセスに関与することで、自治区は法的地位を確保した。しかし、未解決のまま残ったのが係争地問題だった。法的地位を得た自治区の範囲は、1990年代初頭にフセイン政権の軍が撤退した地区を基準としており、キルクークを含めクルド人が自分たちの土地だと認識する地理的範囲よりかなり限定的であった。2005年の新憲法では、2年以内に係争地を自治区に含めるかどうかを決定すると定められていたが、強制立ち退きを含む複雑な人口移動の歴史を背景に議論は紛糾し、結局係争地の法的地位は宙に浮いたままになっていた。そこに起こったのが2014年の「イスラーム国」(IS)の台頭であり、彼らがモスルを含むイラク国土の多くの町に攻勢をかけた際にイラク軍が雲散霧消したことは、クルドにとって係争地の実効支配を確立する千載一遇のチャンスとなった。そして対IS戦の終結が見え始めた2017年半ば、自治政府のバルザーニ大統領は、係争地も含めて、クルディスタンのイラクからの独立を問う住民投票を9月25日に実施すると発表した。
 この住民投票は自治政府が主催したが、実質的には最大与党であるクルディスタン民主党(KDP、クルディスタン地域議会38議席)が主導したものだった。連立パートナであるクルディスタン愛国同盟(PUK、同18議席)はこの住民投票に対して賛成するか反対するか党内が分裂していた。他方、野党として常々KDPの一党独裁体制を批判してきたゴラン(同24議席)は投票実施に反対していた。しかしながら、9月5日から22日まで実施された投票キャンペーン期間には、KDPが旗振り役となって各地で実施した大規模なイベントに大勢の市民が詰めかけ、「もはや自分たちはイラクの一部に留まることに希望を抱けず、今こそ独立の時なのだ」というバルザーニ大統領の扇動的なスピーチに対し、熱狂的に独立を支持する姿が見られた。KDPは、住民投票の実施から独立に至るまでの具体的な道筋を市民に提示していたわけではなく、今、このやり方で、すなわち、国際社会からの独立支持という言質も得られていない中、イラク政府の反対を押し切る形で独立問題を提起することが最良の方法なのかという冷静な疑問は、民族の悲願と大義の前にかき消される結果となった。投票の数日前に、米国政府がイラク政府との話し合いの場を提供することと引き替えに住民投票の延期を強く求めたと報じられたが、その時点ではすでに引き返すことは難しい状況になっていたと言える。KDPが切ったナショナリズム・カードの強さが露わとなり、投票に反対していたゴランの幹部も、最終的には賛成票を投じたことが報じられた。KDPの戦略に懐疑的な知識人も含めて、独立という大義に反対票を投じるにはかなり心理的にハードルが高かったと言える。
 かくして行われた投票結果は、クルディスタン地域の選管の発表によると、有権者数458万1,255名(国外在住者含む)のうち、330万5,925名が投票を行い(投票率72.16パーセント)、「クルディスタン地域と、地域外のクルディスタンの地区が独立国家になることを望むか?」という設問に対して、賛成票が286万1471名(92.73パーセント)という、圧倒的多数が独立に賛成する結果となった。筆者を含む国際監視団のメンバーが投票所を見学したところ、概ね自由・公正な形で、手順に則って投票が行われていた。ただ、対IS戦の影響でモスルなどから避難を強いられた市民のために設けられた特別投票所では、想定を上回る有権者が限られた数の投票所に詰めかけ、数時間待ちの列ができていたり、有権者資格をめぐって混乱が生じたりしている例もあった。さらに、当日投票所の警備にあたるペシュメルガ兵士がどこで投票ができるのかという点についても、現場で対応が異なるなどの準備不足も散見された。それでも、そうした事例を除いた一般有権者の投票については、概ね問題なく行われていた印象だった。投票結果については、全体の数字は公表されたが、県ごとあるいは町ごとの詳細なデータは公表されなかった。報道によると、PUKやゴランが地盤とするスレイマニヤでは、投票率が50パーセント、賛成票が80パーセント程度に留まった模様で、一説ではKDPがこうした意に沿わない投票結果の公表を取りやめたのだとも言われた。KDPが地盤とするドホークやエルビルでは、投票日は朝からお祭りムードで夜は花火が上がり、若者が深夜まで町に繰り出していた。
 KDPは、市民の圧倒的多数が独立を望んでいるという投票結果を得ることで、それを交渉カードとして、イラク政府と今後の独立に向けた話し合いを開始することを望んでいた。これは、独立するかどうか、という話し合いのではなく、独立するというゴールを提示した上で、どのような条件でそこに至るのかをイラク政府と交渉することを意図していた。
 しかし、当然ながら、イラク政府はクルディスタンが独立するという考えにそもそも賛成していなかった。とりわけ、対IS戦でクルドが実効支配した係争地には非クルド人住民も多く、そうした土地も含めて独立するなどもってのほかというのがイラク国内の世論だったと言っていい。住民投票の直前から議会や裁判所が次々と住民投票への反対や違憲判決を表明し、投票実施後には、クルディスタン地域内の空港の国際便就航停止などの経済制裁措置が実施された。そして、住民投票から1ヶ月と経たない間に、北上したイラク軍がキルクークを含む係争地の大部分を奪還するという結果に終わり、クルドは依然として自治区を維持しているものの、支配領域を大きく後退させた。
 イラク政府の強硬な姿勢の背景には、何よりもイラク国内の世論があった。対IS戦が終盤に入って戦勝ムードの中で、民族や宗派の違いによって分断されない統一されたイラクを支持するナショナリズムが高まっていた時期だった。それに加えて、クルド自身が、イラク建国以来、過去100年間差別され迫害されてきたという被害者意識を抱く一方で、2003年以降の10年余りに限れば、むしろ不安定化するイラク国家の脆弱性につけ込む形で、外交や国防、天然資源利用など国家主権に関する領域にまで影響力を行使し、事実上の国家のように振る舞ってきた「勝ち組」のクルディスタン地域に対する反感が積み重なっていた。それが、住民投票を機に表出した。さらに、イランやトルコなどの周辺国、欧米諸国も一様に独立には賛成していなかったことが、イラク政府にキルクークを含む係争地奪還という軍事行動に出ることを可能にしたと言える。
 かくして、住民投票は当初のKDPの想定とは異なる結果に終わり、責任を取る形でバルザーニが大統領ポストから辞任した。クルディスタン地域とそれ以外のイラク国内では、社会的な接点が減少しており、共有される世論に乖離があることが多い。イラクの世論を読み誤ったことが、KDPの最大の失敗だったと言えよう。


※イラク・クルディスタン及びイラクの現状についてさらに理解を深めることを希望される場合には、吉岡明子「第2章 IS駆逐後のイラクの統治構造――多様化するローカル・アクター」平成29年度外務省外交・安全保障調査研究事業報告書『反グローバリズム再考――国際経済秩序を揺るがす危機要因の研究 グローバルリスク研究』(日本国際問題研究所、2018年)をご参照頂ければ幸いです。