コラム

『Global Risk Research Report』No. 15
米軍シリア撤兵とイスラエルの動向

2019-04-02
池田 明史(東洋英和女学院大学学長)
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1.米軍シリア撤兵声明
 2018年12月19日、トランプ米大統領はシリア駐留米軍を撤兵すると闡明した。この決定は、トランプ政権に特徴的な単独行動主義的リアリズムを典型的に投影したものと受け止められ、域内の関係諸国や国際社会を困惑させるものとなった。のみならず、これに抗議して辞任したマティス国防長官やマクガーク有志連合特使の事例に明らかなとおり、トランプ政権の意思決定が、国務省・国防省等の組織的政策形成のプロセスよりも、大統領個人の非公式ネットワーク(インナーサークル)によって担われている事実がより鮮明になり、米国の国際政治における中長期的戦略の不在を強く印象付ける結果を招いている。
 しかし、政治的な意思表示はなされたものの、その具体的なロードマップは不明なままで、時期や手順についても二転三転し、果たして撤兵そのものが実現するかどうか疑わしいとの観測まで出ている。その当否はどうあれ、この意思表示それ自体が、シリア内戦の交戦当事者相互の力関係に重大な影響を及ぼしつつあることは否定できない。
 最大の裨益者は、アサド政権とこれを支え続けてきたロシア、およびイランの両国である。米軍撤兵の意思表示は、内戦においてアサド政権側を勝勢に導いた最大の功労者であるロシアの影響力が、将来のシリア統治に決定的な形で波及することの追認を意味する。それはまた、イラン核合意(JCPOA)からの離脱と対イラン制裁再開によってイランの孤立化を図ろうとするトランプ政権が、さしあたってはシリアにおけるイランの勢力伸長を傍観することをも示唆する。
 
2.裨益者としてのトルコ
 皮肉なことに、反アサド側の武装勢力を支援してきたトルコもまた、米軍撤退によって裨益する。米軍のシリア駐留は、「イスラーム国(以下IS)」の掃討を唯一の目的とするものであり、その場合でも空爆などの遠隔戦を主体とすることで、自軍の人的損耗を極小化しようとした。しかしIS掃討には陸戦兵力の投入による包囲殲滅戦が不可欠となり、このため米軍は陸戦を担う友軍としてシリア民主部隊(SDF)との連携を基軸に作戦を展開してきたのである。そのSDFの主力はシリアのクルド系民兵(YPG)であり、トルコの目から見ればトルコ内外で政府へのテロを繰り返すクルド労働者党(PKK)の別動隊にほかならない。同じNATOの同盟国である米軍が、トルコにとって安全保障上の最大の脅威であるテロ集団PKKと協働し、PKKがシリア国内で米軍によって訓練支援を受け、兵站を供給されるという事態に、トルコのエルドアン政権は反発を強めてきていた。米軍撤退の意思表示は、こうした「ねじれ現象」に終止符が打たれることを意味し、トルコは後顧の憂いなくクルド掃討に注力できることになる。クルド側にとってみれば、それは米軍の保護を失って、この地域では強大なトルコの軍事力の前に孤立無援を余儀なくされることにつながる。クルド側がかつての交戦相手であるアサド政権やロシアとの宥和路線を模索する所以である。
 
3.イスラエルの戦略転換
 さて、シリアと国境を接し、米国と最も強い政治的戦略的盟友と看做されるイスラエルは、シリア内戦の帰趨と米軍撤兵声明とをどのようにとらえているのだろうか。1979年のイスラエル=エジプト和平協定成立後、シリアはイスラエルにとって隣接する最大の軍事的脅威であり続けた。そのシリアで内戦が長期化し、「生存」こそがアサド政権の唯一の課題となって、イスラエルへの脅威は大きく減殺された。当初、この内戦に対するイスラエルの基本方針は、監視と傍観であった。アサド政権側に付いて参戦したレバノンのシーア派民兵ヒズブッラーなど、敵性勢力の動向を監視しつつ、自国の安全保障を直接脅かす事態(受忍限度越え)に立ち至らない限り、これを傍観するという姿勢である。ここで受忍限度越えとは、イスラエル領内に攻撃が及ぶこと、ヒズブッラーに先端兵器等が移転されること、監視哨戒のための航空機が攻撃されること、を意味した。事前にこれらの受忍限度を内外に闡明しておき、その侵犯に対して個別に武力で脅威を排除するという方針である。
 しかし2015年以降、イランに使嗾された民兵集団が陸続とシリアに送り込まれ、とりわけ2017年からはイラン革命防衛隊本体がシリアに展開するに至って、イスラエルの交戦事由(casus belli)は大幅な転換を余儀なくされた。従前に引かれた個別の受忍限度線とは無関係に、「ユダヤ人国家イスラエルに対してあからさまな敵意を隠さない勢力が、シリア国内に軍事的定着をはかること」それ自体が、阻止と武力的排除の対象となったのである。
 
4.シリアにおけるイスラエルとイランの相克
 このような交戦事由の転換は、2015年に策定されたイスラエル国防軍戦略要綱のいわゆる「戦間期戦闘行動(Campaign Between Wars、以下CBW)」の構想と相俟って、イスラエルの対外的軍事力行使を積極化させることとなった。CBWとは、戦時と平時との区分が限りなく曖昧になっている状況下で、「次の一戦」に備えて敵性勢力の台頭や伸長を抑止し、その漸減をはかるべく、武力行使の恒常化を躊躇しないという発想にほかならない。
 2018年に発動された「砂上の楼閣作戦(Operation House of Cards、5月)」や「北の盾作戦(Operation Northern Shield、12月)」は、こうした趨勢を象徴する軍事行動であった。もとより、前者は第4次中東戦争以来最大の航空戦力を用いて、シリアに定着しようとするイラン系軍事拠点約50か所を同時に空爆したものであり、後者はレバノンからイスラエルに越境して開削された地下トンネルの探索と破壊とを内容とする作戦であって、その態様は大きく異なる。それでも、この両作戦がいずれもCBWの一環として位置づけられている事実は、イスラエルの軍事戦略の転換をはっきりと物語っている。
 米軍撤収によってイスラエルが最も懸念するのは、シリアにおけるイランの軍事的定着がより容易になり、イラン=イラク=シリア=レバノン戦略回廊の開削・拡幅によってシリア領内のイラン系勢力やレバノンのヒズブッラーに対する兵站補給や増援派遣のルートがより太くなるというところにある。シリアに展開する米軍部隊は、そもそもSDFに対する訓練支援や情報・兵站の提供が主任務であって、規模も小さく、それも対IS戦に関連するものに限られるという制約があった。イスラエルのシリア領内イラン拠点への攻撃は、どこまでもイスラエル単体の作戦であって、米軍の支援を受けて行われたのではなかった。その意味では、米軍撤収がそのままイスラエルの軍事作戦に影響を及ぼすわけではない。それでも、如何に小規模とはいえ、米軍の存在それ自体が象徴的意義を持っており、イランはこれとの衝突を慎重に避けてきた。そのような障壁がなくなれば、シリアにおけるイランの行動の自由は格段に広がり、イスラエルもまたこれに対応してCBWの作戦正面を大きく拡大せざるを得ないだろう。
 
5.展望:北方戦争の蓋然性と戦略的遠隔戦の可能性
 CBWはその定義上「次の一戦」を必然的な前提としており、これまでの経緯からすれば、イスラエルにとって戦争勃発の蓋然性が最も高いのは北方正面になる。従来イスラエルは1982年の第1次、2006年の第2次に続く「第3次レバノン戦争」を想定して作戦構想を立案してきたが、いまや脅威はレバノンのヒズブッラーにとどまらない。シリアに定着しつつあるイラン革命防衛隊隷下の軍事力が、イスラエルの安全保障を深刻に脅かしつつある。「次の一戦」は、したがって、シリアとレバノンとの脅威が結節した二正面で展開される「第1次北方戦争」となるものと予想されている。懸念されるのは、いずれの脅威についてもその背後にイランが介在しているという見積りの下で、いったん戦争が勃発すれば、戦域が必ずしもシリアとレバノンとに限定されなくなるシナリオも出てくるというところである。イスラエルが長躯して策源地と看做すイラン本土に攻撃をかける可能性も排除できず、そうなればイランとの間に相互に弾道弾を撃ち合う戦略的遠隔戦が繰り広げられるという、最悪の展開を視野に入れざるを得なくなるのである。
(2019年3月10日脱稿)

※本稿は、平成30年度外務省外交・安全保障調査研究事業報告書『反グローバリズム再考――国際経済秩序を揺るがす危機要因の研究 グローバルリスク研究』(日本国際問題研究所、2019年)の要旨となります。詳しくは、報告書の本文をご参照下さい。