領土・歴史センター

野田正太郎の来歴とその史資料
―日土関係黎明期に埋もれていた「最初の日本人ムスリム」

2024-03-14
赤川尚平(日本国際問題研究所研究員)
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2024年は日本とトルコ共和国の国交樹立から100周年という記念の年である。1924年8月6日、前年に調印されたローザンヌ条約の発効によって両国間は正式な国交を結ぶに至った。1873年4月、岩倉遣欧使節団から別れた福地源一郎らがオスマン帝国を訪れたことを近代日本と「トルコ」の最初の公式な接触と捉えるのであれば、およそ半世紀の年月をかけての国交締結であった。

正式な二国間関係の成立に先立つ黎明期とも言える時代にも、少なくない日本人がオスマン帝国の地を訪れ、当時の様子や自らの所見を滞在記などの形で残している。先の福地に同行した浄土真宗西本願寺派の僧侶である島地黙雷の『航西日策』は、イスタンブルについて観察した日本人による最も古い記録として貴重なものである。また、当時衆議院議員であり、後に慶應義塾長や文部大臣を歴任することとなる鎌田栄吉は1896年に欧米歴訪の途中でオスマン帝国にも足を運び、その描写に著書『欧米漫遊雑記』の紙幅を割いている。当時のオスマン帝国のスルタンであるアブドゥルハミト2世による社会福祉政策を仁政としつつも、「畢竟東洋流の仁政にして国家の大本を培養する所以の道に非ず」と述べて帝室財政の放埒さを厳しく評価するくだりは、慶應義塾の財政再建に辣腕を振るった鎌田の信念が伺えるようで興味深い。文豪として名高い徳冨健次郎(蘆花)もまたオスマン帝国をその目で見て、所見を残した1人である。「不図基督の足跡を聖地に踏みて見たく、且トルストイ翁の顔見たくなり」という思いに駆られた徳冨は、1906年4月にエルサレム巡礼とロシアの文豪トルストイを訪ねるための旅に出て、途中でイスタンブルに滞在している。徳冨の旅の記録は同じ年に『巡礼紀行』として出版された。そのなかで徳富は「極東の病人」(大清)と「近東の病人」(オスマン帝国)には共通点が多く、且ついずれも蘇生の兆しが見えていると分析しつつ、日本とオスマン帝国の将来の関係に期待を寄せた。筆者は全ての旅行記を網羅的に調査したわけではないものの、徳冨に限らず、オスマン帝国を訪れた日本人には中国との比較でオスマン帝国の来し方を考え、そこから日本の行末に思いを馳せる者が散見される。ともあれ、上に挙げた人々は日土関係の始まりを彩る存在のごく一部である。

そのような日土関係の黎明期に活躍した日本人のなかで、近年に至るまでその事績に比して歴史の陰に隠れてきた人物がいる。それが野田正太郎、日本人初のイスラーム教徒とされる人物である。1868年(明治元年)1月、八戸藩士である野田穉(おくで)の長男として、当時の青森県陸奥国三戸郡八戸町(現在の八戸市番町)に生まれた。幼い頃より勉学に才を発揮した野田は長じて1886年9月、慶應義塾に入社し、経済学や英学などを学んだとされる。その才は福澤諭吉の認めるところであったとみられ、卒業後は福澤が創設した時事新報社の記者となった。記者としての活動を始めて間もなく野田は国際的な大事件に遭遇する。1890年のエルトゥールル号事件である。

1887年、日本の皇族である小松宮夫妻がオスマン帝国を訪問し、スルタンであるアブデュルハミト2世と会見し、明治天皇の親書と大勲位菊花大綬章を奉呈した。その返礼として1889年、オスマン帝国は軍艦エルトゥールル号を派遣した。訪日使節団という名目を掲げつつも、軍艦派遣の主たる狙いについては、その途上での英領植民地などにおけるムスリムらへのアピールとイギリスへの牽制であると言われる。エルトゥールル号は日本に訪れる前、シンガポールに4ヶ月も滞在し、そのことはイギリスのメディアで批判的に報じられた。1890年6月、エルトゥールル号は横浜に入港し、使節団らは東京での陸軍関係者を中心とした歓待を受けたが、7月18日には乗組員がコレラに感染・死亡するという事態に陥った。当時の日本では長崎から始まったコレラ禍が北上しつつある最中であり、パンデミックを懸念した日本政府らの重ねての警告を受け、エルトゥールル号は横須賀の長浦消毒所(検疫所)に移動した。9月15日に長浦を出港したエルトゥールル号は暴風雨により航行困難となってしまった。翌16日夜、紀伊大島樫野崎沖で船体が岩礁に乗り上げ、浸水した海水によりボイラーが爆発して船が大破するという遭難事故が発生するも、地元民の救助活動などもあり69名が生還することになった。これがエルトゥールル号の遭難事件の一連の経緯である。

遠くオスマン帝国より日本の地を訪れて遭難したエルトゥールル号の悲劇と、日本人の手による救難活動を新聞社は競って報道した。幾つかの新聞社は義捐金募集のために広告を出し、他の組織、さらには個人でも義捐金募集活動が行われた。生存者らと集められた義捐金は、日本の軍艦比叡と金剛によってオスマン帝国へと送り届けられることとなり、遭難事件から1ヶ月後の10月16日に両艦は出港し、翌1891年1月2日にイスタンブルへの入港を果たした。時事新報社は自社の集めた義捐金について、海軍に送付の代行を依頼するのではなく、自社の記者を軍艦に同乗させ、オスマン帝国へと派遣して送金することを試みた。派遣記者として白羽の矢が立てられたのが、当時まだ数えで23歳という若さの野田正太郎であった。彼は比叡に乗ってオスマン帝国を訪れ、その地を去るまでの約2年間、『時事新報』紙上に記事を投稿し続けた。野田の事績を詳らかにした三沢伸生は野田を「日本のマスコミ史上に特記されるべきイスラーム世界における最初の派遣・駐在新聞記者」と評している。野田はオスマン帝国における新聞事情に強い関心を抱き、また自身の派遣がどのように報道されているかという現地での評判にも気を配った。航海途上、野田は同乗する生存者の力を借りてアラビア文字で書かれた名刺を作成し、トルコ語の勉強に努め、到着後は現地のジャーナリストや知識人らとの交流を深めた。このことは野田の声望を高め、それはスルタンの耳にも達するほどであった。謁見に際してアブデュルハミト2世は野田の手を取り、短期間でトルコ語を習得したことを大いに称賛し、謁見の印としてダイヤモンドが散りばめられた煙草入れを下賜した。野田は「土耳古皇帝が余の如き一年少記者」に対してこれほどの待遇で接してくれたことへの強い感動を記事に残している。

アブデュルハミト2世はオスマン帝国士官への日本語教育を要請するため、比叡・金剛の乗員である士官のうちで語学に堪能な者がオスマン帝国に残留することを望んだ。オスマン側から再三申し入れがあったものの、日本人士官の残留は両艦長の強い反対により実現しなかった。そこで、またもや野田に白羽の矢が立てられた。当初、オスマン側は野田にトルコ語取得とオスマン帝国情勢に精通するためにも、しばらく滞在してはどうかとの要請を行った。残留を決意し、時事新報社にも承諾を得た野田に対して、オスマン側は士官に対する日本語教育の任を課していった。とはいえ、士官への日本語教育という仕事は野田にとってもやり甲斐のあるものだったようで、わざわざ時事新報社の同僚に要請して日本から教材や筆記具を取り寄せるなど、とても熱心に取り組んだようである。野田は記者活動も継続し、大津事件に対するオスマン帝国やヨーロッパにおける反応といった興味深い記事を『時事新報』に投稿している。また、オスマン帝国を訪れた日本人への協力も積極的に行っており、後にイスタンブルで貿易業を営む山田寅次郎も野田の支援を受けた1人であった。そして野田は1891年6月にはイスラーム教徒に改宗し、「アブデュルハリム」という名前を得て、日本人として最初のムスリムとなっている。しかしその後、理由は定かではないながらも野田は1892年12月中旬頃にイスタンブルを離れ、欧州とアメリカを視察し、1893年5月頃には帰国したとみられる。帰国後、野田は同年8月まで断続的に『時事新報』に記事を寄せているが、連載記事を抱えたまま野田の投稿は途絶えてしまった。時期は不明ながらも野田は時事新報社を退職したようであり、次に野田の名前が確認できるのは1896年9月、私印私書偽造事件の容疑者としての報道記事である。身持ちを崩して奢侈な生活を送った結果、金銭に困っての犯行であったとされる。歴史の表舞台から降りた野田は1904年4月27日に37歳の若さでこの世を去った。

以上のとおり、晩年は決して恵まれたとはいえないものであったが、野田正太郎は日本近代史における先駆者の1人として稀有な事績を残した人物であった。しかしながら、長年にわたり野田は歴史の陰に埋もれた存在となってしまっていた。その理由として、エルトゥールル号事件や野田らの活躍もあって盛り上がった日土友好の気運や日本社会のオスマン帝国への興味関心が当時は一時的なものと終わってしまったことが挙げられる。エルトゥールル号の遭難事件とその救難行為については後に古くからの日土友好の象徴として「発掘」され、再び注目を集めて今日に至るが、事件後に活躍したものの身持ちを崩して早くに亡くなった野田の存在は長らく掘り起こされることはなかった。また野田の文章がまとめられた刊本が存在せず、それもあってか彼の事績が山田寅次郎など他の人物のそれと混同して語り継がれてしまい、野田の存在が忘却されてしまったことも要因の1つであろう。2000年代以降になってようやく、三沢伸生らの日土双方の史料を渉猟した一連の研究によって野田の波乱万丈な生涯の多くの部分が明らかになっており、本稿の記述もそれらに依拠している。三沢の指摘するとおり、日土関係史を考える上で野田の果たした役割は極めて大きいものがある。晩年の事件は遺憾ではあるものの、それは野田の功績を否定するものとはならないはずである。日土関係を切り拓いていった先駆けとして、彼の事績を近代日本の歴史に位置付ける必要がある。

野田に関する研究において用いられている史料のうち、日本には野田家に受け継がれてきた史資料が存在する。2000年6月、八戸市に在住していた野田正太郎の孫にあたる野田康夫氏が家に残されていた祖父の遺品を見つけ、エルトゥールル号事件を踏まえて開館された和歌山県串本町のトルコ記念館に寄贈したものである。写真やオスマン帝国の新聞や文書、野田の日本語教育の教え子から送られた手紙など40点あまりが残されていた。野田のオスマン帝国での活動の一端を伺うことができる貴重な史資料である。近代日本の来歴に大きな事績を残しながらも語られることが少ない状況にあった人物の史資料が発掘されて研究が進展したということもさることながら、地方自治体がこのような史資料を受け入れ、管理・保存に積極的に取り組んでいるということもまた特筆すべきことである。寄贈先のトルコ記念館では2024年2月現在、6点の野田関連史料が訪問客に向けて展示されている(PDF版写真①~⑥、トルコ記念館提供)。野田の生まれ故郷の八戸市でもその取り組みが地元紙などで報道され、市の公式ホームページには発見された史資料に基づいて制作された野田正太郎の紹介ページが設置されている。陰に隠れてしまった歴史上の人物や出来事に光を当て直すという試みは重要であるが、その支えとなる史資料の状況にまで目を配る必要がある。重要な史資料が知らぬうちに人の管理の手を離れて破損し、廃棄されるということは、残念ながらままあることである。失われてしまった史資料を再び取り戻すということは不可能に近い。そのような事態を避けるためにも、様々な自治体の史資料をめぐる活動を体系的に調査し、周知し、時には支援していくような取り組みをより一層充実させていくことが求められている。

末尾となるが、今回、八戸市庁教育委員会社会教育課や和歌山県庁企画部企画政策局国際課、和歌山県串本町役場およびトルコ記念館のご協力を得て、野田の史資料をめぐる経緯や展示の状況について懇切にご教示いただいた。記して感謝申し上げる次第である。

主要参考文献

  • 小松香織「アブデュル・ハミト2世と一九世紀末のオスマン帝国―「エルトゥールル号事件」を中心に―」『史学雑誌』98巻9号(1989年)、1512-1554、1605頁。
  • 内閣府中央防災会議災害教訓の継承に関する専門家委員会編『1890エルトゥールル号事件報告書』(内閣府、2005年)。
  • 三沢伸生「1890〜93年における『時事新報』に掲載されたオスマン朝関連記事:日本人初のイスラーム世界への派遣・駐在新聞記者たる野田正太郎の業績」『東洋大学社会学部紀要』41巻2号(2004年)、109-146頁。
  • MISAWA, Nobuo & AKÇADAĞ, Göknur "The First Japanese Muslim: Shotaro NODA (1868-1904)," 『日本中東学会年報』23巻1号(2007年)、 pp. 85-109.
  • 三沢伸生「エルトゥールル号乗組員の日本滞在期間における活動」小野亮介・海野典子編『近代日本と中東・イスラーム圏―ヒト・モノ・情報の交錯から見る―』(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2022年)、69-94頁。